今楽しいこと、それは次女(三か月)と毎日お風呂に入ることです。長女(五才)も一緒に入ります。マットにタオルを敷き、その上に次女を寝かせて体を洗います。その間長女は自分で体を洗います。それからぬるま湯の張ってある湯船に三人で漬かり、次女をお気に入りのポーズにしてやります。
お気に入りのポーズとは、頭の後ろだけを持って仰向けにプカプカ浮かしてやることです。このプカプカが余程気に入ったらしく、気持ちよさそうに「ウー、ウー」と話し掛けてきます。母親の子宮内を思い出しているのかも知れません。子宮という小宇宙に漂う安らぎが伝わってくるようです。
とらわれの中にあった頃、カゼの症状とか腰痛、あるいは抑うつの中で長女を毎日お風呂に入れることはとても辛いことでした。ただでさえ治りにくいカゼがますます治らず、腰痛を押して子供を抱き、抑うつの体に鞭打ってお風呂に入りました。それが今では楽しいことの一つになりました。本当に嘘のような気がします。カゼの症状や腰痛があってもさ程気にならなくなりました。
私にとってカゼの症状や腰痛は心身症の一つであり、実生活からの逃避願望の現れであったように思います。抑うつについては実生活から逃避したい気持ちが神経質症として発展していったものと考えています。
「神経質性格」
子供の頃よりカゼを引きやすく、一度カゼに掛かると中々治らず一年の半分以上をカゼ薬のお世話になっていました。また中学生の頃より食べ物に対してアレルキー性じんましんが出るようになり、自分の家で調理したものしか食べられなかった時期もありました。 これらについて自分は過敏性体質なのだから仕方がないものと思っていましたが、単に体質に基因していただけでなく、神経質性格や環境が自分の身体を過度に気遣う傾向を育み、後に異常感覚を不治の病と恐れ、あるいは不安や抑うつをうつ病として死の恐怖に結び付けていったようです。
森田先生は過敏性体質それ自体に対しては鍛練の必要性を上げておられますが、去年よりスイミングを始めてカゼの症状や腰痛に対して抵抗力が付き、症状はあっても苦にならないようになってきました。小学生の頃より色々とスポーツをしてきましたが、高校二年の時スポーツクラブを止めたことが抵抗力を弱め、より症状にストレスを感じるようになっていったように思います。
「逃避」
高校生になった頃より注意が自分の心に向いていくようになりました。同時に自分の神経質な性格を嫌い、大胆な人間に憧れ、小心で精神的に弱い自分の性格を否定し、観念的に感情をやり繰りして性格を変えようとしました。その結果として無気力、無関心、無感動といった状態に陥っていったようです。
また学校で与えられる本には殆ど関心を示さなくなり、むしろ学業とは結び付かないような本ばかり読むようになっていきました。それが孤立感を生み観念的傾向を強めていったように思われます。
更に大学受験と重なり、机の前に座ると髭が気になり勉強に手が付かないという状態とか、テストの最中に必ず中耳炎が再発するといった状態にも陥っていきました。これらについては自分でも逃避的な側面を持っているらしいということは薄々気付いてはいましたが、気付いてはいてもどうすることも出来ませんでした。
この時期のテスト不安とも言える症状は、受験が終わると同時に消失していきましたが、その他、中学生の頃より神経質症とまではいかないまでも、種々のそれに近い症状が見え隠れしていたようです。
「自己否定」
子供の頃より家族間の人間関係に敏感な傾向があり、それが神経質性格特徴のマイナス評価に傾き自己否定につながっていったようです。太宰治、旧約聖書、フロイドなどに救いを求め、あるいは何かを得ようと右往左往しているような青春でもありました。
東京で大学生活を過ごした後、帰郷し家業の旅館業に従事するようになりました。小さなビジネス旅館ですから接客から掃除まで何でも自分で出来ることはしましたが、大きなホテルなら別でしょうが、男のする仕事として評価してくれる人は誰もありませんでした。仕事に対して評価出来ないことが自分に対してもマイナスの評価になりました。
二年も経つと仕事にも慣れ時間の使い方も分かってきて、ある資格試験を受験しました。五科目中二科目に合格しましたが、あと三科目がその後五年連続不合格という結果として残りました。この挫折の連続もまたマイナスの自己評価につながっていきました。
またこの頃より、祖父が病気を切っ掛けに痴呆性老人の特徴を示すようになっていきました。丸七年間、私を始め家族が、あるがままの気持ちで祖父の症状に対応できていたなら、本人にとっても家族にとっても少しは楽ではなかったかと思います。祖父の症状が私に与えた影響は大きかったと思います。
「異常感覚」
二十六歳の時、妻との結納を数日後に控えて突然両足に異常感覚を覚えるようになりました。この異常感覚とは、モジャモジャした感じが両足の皮膚一面を覆い何とも気持ちの悪い感覚です。丁度その一か月前に腰を痛めていたこともあって、整形外科から病院巡りが始まりましたが、原因も分からぬまま異常感覚は益々強くなり、足ばかりでなく両手から後頭部にまで広がっていきました。
血行障害を疑い、このまま足が腐っていってしまうのではとジョギングを試みたこともありました。また余りの不快な感覚に両足を切ってしまいたいと思ったことも度々で、アルコールで異常感覚をごまかそうとしたこともありましたが、酔い覚めの頃になると前にも増して異常感覚が強く感じられ眠っていることも出来ず、アルコールを飲まないようにもなりました。
回り回って針灸院で針治療を受け、週二回、三か月ほど通院し、腰がよくなり仕事上腰に掛かる負担が小さくなったようで、ほとんど異常感覚を感じなくなるまでになりましたが、翌年、結婚を境に腰痛とこれに伴い異常感覚がまた現れるようになりました。針治療も一進一退といった状態で、現実を見なければならない目が症状に向いていきました。結婚による適応不安がありました。
腰痛とこれに伴う異常感覚は、次第にカゼの症状と平行して生じるようにもなりました。更に微熱感が伴い、断続的だった異常感覚は継続的になり益々これにとらわれていきました。その後精神的ストレスとも関係するようになり、実生活上の諸問題がストレートに異常感覚に反映し、加えて吐き気が伴うようにもなり現実から逃避したい気持ちが大きくなっていったようです。
異常感覚に対するまとめとして、逃避的な幼弱性と、異常感覚をあってはならないものと敵視し取り除こうとした姿勢の相乗効果により発展したもので、それまでカゼの症状といった心身症に逃げ場を求めていたものが、神経質症として現れたものだと思います。
「不安、抑うつ」
三十一歳の時、異常感覚が精神的な問題と関係があるのではと考え精神科を受診しました。異常感覚を抑えるという薬を服用しましたが、特に自覚できるほどの効果もありませんでした。
その後、心身共に奇妙な無気力感に支配されるようになり、また通常抱くような不安感とはどこか次元の異なった全く訳の分からない不安感が顔を出すようにもなっていきました。更に、朝早く目が覚めるようになり、睡眠時間が三時間程になると早朝覚醒と同時に底知れない不安感に襲われるようになり、居ても立っても居られず、かと言って騒ぎ立てることも出来ず、布団の中で丸くなっている以外どうすることも出来ませんでした。
一時間程すると、ようやく底知れない不安感からは解放されるのですが、毎日がこのことの繰り返しで、寝るとまた目覚めたとき底知れない不安感に襲われるという恐怖から、不眠恐怖ならず睡眠恐怖に陥っていきました。睡眠時間が二時間程になると早朝覚醒に心悸亢進が伴うようにもなり、安定剤を服用するようになりました。
底知れない不安感からは解放されましたが、徐々に不安から抑うつへ、睡眠恐怖から不眠恐怖に移っていきました。また頭の中が完全に異常に感じ、このまま発狂してしまうのではないかと毎日を戦々恐々と送っていました。仕事は続けていましたが、仕事上のお客さんに対する対人恐怖や仕事上の電話に対する電話恐怖といった症状も現れ、また食事も砂を咬んでいるようなもので食欲もなく体重も十キロ以上も減っていました。
特に一時期、抑うつに拍車が掛かり、生きていることの恐怖と死ぬことの恐怖の間をさまよったこともありました。このとき初めて死の恐怖を垣間見たように思います。このことが恐怖感動となり、自殺念慮に対する恐怖が予期不安として根付き、その後、通常誰にでもあるような不眠感や不安感、あるいは抑うつ感に対して恐怖するようになっていったように思います。
仕事や家庭の中にいるのが辛く神経内科の病院に入院することになりました。病院のベッドに横になってしまうと、それまでの様々な恐怖が不思議と無くなっていきました。その晩の病院の食事が美味しかったことを覚えています。入院して三日間はうとうと状態でしたが、四日目より退屈感を覚えるようになり、一週間目で退院を希望するまでに精神状態が回復していました。
一か月の入院の後実生活に復帰しましたが、その後精神的ストレスから早朝覚醒や不安、抑うつといった症状が再び現れるようになり、抗うつ剤の服用を繰り返すようになっていきました。また、カゼが引金となって抑うつ状態に陥るといったこともあり、一体この先どうなってしまうのかと不安な日々を送っていきました。
この間の症状に対するまとめとして、とらわれが異常感覚から不安や抑うつに移っていったように思います。これが本来の病気ではなく主観であったことは、私自身どれほど恐怖しようと回りの誰一人として病気であるという認識を持っていなかった点にあると思います。客観的に見て私は健康人として生活していたようです。
「共感」
去年の四月、読売新聞の紙上で引き付けられた一つの記事がありました。これが生活の発見会との出会いでした。大阪天満橋集談会のS氏の紹介と森田先生のノイローゼに対する考え方が掲載されていました。
「人間ならば誰でも不安を持っている。その不安を取り除きたいという意欲が高まる程かえって強まってくる。ノイローゼになる人は、よりよく生きたいという欲望が人一倍強いため、いっそうとらわれる。だから不安になることを否定せず、あるがままに受け入れ目的を持って行動すれば、不安は薄らぎ悩みを解決できる。」
まるで自分のことを言われているようでした。S氏の心の葛藤が自分とは症状こそ違え本質は同じように思えました。更に森田先生のノイローゼに対する考え方がそれを裏付けてくれました。
発見会に入会して集談会の方々に対する共感や、本を読んで「森田」の考え方に対する共感が益々高まっていきました。「森田」に対する適否について、抑うつという症状の性格上迷ったこともありましたが、共感できたということと、集談会の方々の暖かい助力のお陰で「森田」に食い下がってこれたと思います。
「森田」の正しさは、とらわれから解放されて初めて分かったような気がします。とらわれの中にあってはただ試行錯誤の連続であり、神経質症で苦しまれた方々に対する共感や、「森田」の考え方に対する共感だけが支えだったようです。
「あるがまま」
その後「森田」を理解しようと努めましたが大きな壁が待ち受けていました。それは「森田」が症状と実生活上の諸問題との関係を取り上げようとしないことでした。自分の中に自己中心的幼弱性ということが受け入れられませんでした。益々「森田」が分からなくなりました。「あるがまま」という単純な言葉が魔法の呪文のようにも思えました。
六月の集談会で初めてS理事にお会いした際、仕事上のお客さんに対する予期不安に対して、「対応さえ出来れば、それでよい」というご助言を頂きました。当時の私にはこれが「あるがまま」であるということが分かりませんでしたが、それ以来、実生活上の様々な予期不安に対して自問自答するようになりました。
また、何故「森田」は精神分析のように原因を究明しようとしないのかということに対して、「原因が分かっても森田では何にもならない。前向きに行動するだけが必要」という答えを頂きました。その夜、「森田」とはとんでもないシビアーな理論ではないかと思い始め、空恐ろしい気持ちになりました。甘えを許さない、逆に言えばいかに自分が自分に甘えていたかを考えさせられました。
最近では、実生活に対して「あるがまま」が役に立っています。私の場合、症状と実生活とは切っても切り離せない関係にあり、実生活に対してあるがままであることが症状に深入りしないことに通じるようです。
特に、逃げたい気持ちと逃げたくない気持ちの葛藤に対して、「森田」はどうすればよいかを教えてくれたわけですが、なすべきことをなすことの難しさが、ひしひしと感じられます。まだまだ実生活では、受動的あるがままであったり能動的あるがままであったりといったところですが、それなりに成長したと自己評価しています。
「日記指導」
入会して後、集談会のKさんに色々とお世話になりました。また六月より日記指導をして頂けるようになりました。本を読んで「森田」は厳しいという気持ちはありましたが、日記指導はそれ以上に応えました。
生きていく価値は日常の雑多な生活の中にあること。症状も含め気分の快、不快と言ったものも自分自身であること。家族に何かを求めるのではなく、何をしてやれたかが大切であること。その他、特に家族関係の問題について教えて頂いたことが多くありました。日々の生活を日記を通して助言して頂いたことが大変参考になったようです。日記指導なくして現在の自分はなかったと思います。
発見会に入会した当時は「森田」は厳しいと思いましたが、最近では「森田」の考え方が当たり前のようになってきました。自己中心的幼弱性に気付き、これを認め、実践を通して克服していくことの大切さを教えて頂いたと思います。
「スイミング」
中学生のとき不注意から過って片方の鼓膜を破損し、その後プールに入って中耳炎になり、それが慢性化して手術をしました。それ以来泳ぐことがなかったわけですが、その年の夏子供とプールに行った際、思い切って水の中に潜ってみました。
もう泳げないものとばかり思っていましたが、何とか二十五メートル泳ぐことができ、この時から何かふっきれたような気持ちになり、以前からスイミングをしてみたいと思っていたこともあって、スイミングスクールのフリーコースに入会し毎日通うようになりました。また日曜日には長女と一緒に行くようにもなりました。
この九月でスイミングを始めて丸一年になります。カゼの症状は相変わらずですが、それでも一泳ぎするとすっきりするようです。次女が生まれてからは育児に時間を取られて毎日は行けなくなりましたが、この夏は長女と週二、三回通っています。子供に対して百の説得より一つの体得を大切に、楽しく一緒に体得できるものを持つことに心掛けていきたいと思います。
今年は盆過ぎになってようやく長女を海に連れて行ってやることが出来ました。去年までの海水浴嫌いの私ではなく、長女と一緒に思い存分波と戯れました。むしろ私の方が楽しんでいたのかも知れません。来年は次女も連れて家族四人で海水浴を満喫できたらと思います。
「恐怖突入」
去年の十月に症状に陥った際、恐怖突入しました。早朝覚醒で目が覚めてもそれ以上眠りを求めず、不安の中で「森田」のテープばかり聞いていました。それから起床して床に付くまでの間ひたすら実践しました。じっとしていたりテレビを見ていても不安に襲われるので、症状を取ろうとして掃除などに手を出したことも度々でしたが、この際、はからいであろうと、ごまかしであろうと、行動が目的にかなっていればよいと自分に言い聞かせ、目的本位、家族本位の行動に心掛けました。
一週間程で早朝覚醒に伴う不安感が少しづつ薄らぎ始めてくるのが分かりました。森田先生の「休息は仕事の転換にあり」という言葉に従い実践を続けました。二週間も経つと不安感はほとんど消失しましたが、抑うつが引き続き尾を引いていきました。一か月を過ぎる頃には、早朝覚醒もあったりなかったりするようになり少々気も緩んできて、また実践のやり過ぎから疲れも出て何もする気にならなくなってしまいましたが、これではいけないと思い少しづつ実践を続けました。
実践課題として、妊娠中の妻に対して少しでも自分で出来ることに心掛けていきました。自己中心的幼弱性から、夫婦関係をはじめ家族関係に対してノイローゼ状態になっていった頃を省み、妻に対して今出来ることを実践していきました。これは自分の幼弱性との戦いでもありました。次第に抑うつは消失していきました。
「実践」
それまで実践ということがよく分かりませんでしたが、行動の目的をはっきりさせ、当たり前というのではなく、行動したことにプラスの評価をしていくことが大切なように思います。これまでも仕事や家庭あるいは地域社会に参加し、それなりにやることはしてきたつもりでしたが、常に劣等感的差別観に支配されていたようで、自分の存在に脅えることさえありました。これが益々自分を逃避的にさせていったようです。
少しでも出来たことを評価することは、完全主義的傾向の強い性格にとっては難しいことですが、自分の行動が回りの人たちに少しでも貢献できたことを評価してみると、行動したことが楽しく感じられるようです。日々の生活を通してこれを繰り返していくことで次第に身についてきたように思います。
やりたい時にやり、やりたくない時はしないという気分本位な面もありました。調子が上がってもっとしたくても、後先のことを考え時間切れを宣言し、気分が乗らなくて何もしたくなくても、する必要のあることは少しづつでも手を付け、行動のムラを小さくしていくことが気分の波を小さくしていくようです。やり過ぎに注意し行動の転換に努めるようになりました。
私の家の仕事は旅館業のため変則的な生活を強いられることもあって、特に行動の転換が大事になります。また客商売ですから自分のペースで回ることも出来ないのでストレスが溜りやすいようですが、小さなことでもお客様本位の行動に心掛けていくことで、仕事に対してもプラスの評価が出来るようになってきたように思います。
「体験発表」
今年の五月に金沢で開催された北陸ブロック基準型学習会において体験発表させて頂きました。まだ入会して一年になったばかりでしたが、この体験発表は私にとって大いにプラスになりました。去年の十月に恐怖突入を試みてはいましたが、症状について整理されていたわけではなく、体験発表がその機会を与えてくれることになりました。
三十四年の歳月をたどり、あるいはとらわれの中にあった頃を振り返りながら一つ一つ書き出していきました。異常感覚、不安、そして抑うつ、それぞれの時のことを体が覚えているせいか次第に抑うつ状態に陥っていきました。このまま逆行していってしまうのではといった不安が幾度となく押し寄せてきましたが、それでも何度も書き直していくうちに頭の中が整理され、それと平行して抑うつも薄れていきました。症状はあるがままに体験発表をまとめ上げることが目的本位の行動でもありました。
症状は抑うつから大腸過敏に移り体重が減少しましたが、後半より食欲も回復し大腸過敏もあるがままに当日体験発表に臨みました。諸先生方の暖かい言葉に心が洗われるようでした。また体験発表を通して、総括を繰り返していくことの大切さを身に染みて感じました。翌日の朝食でご飯を三杯もお代わりしました。体重が減った分いくらでも食べれそうな気がしました。
「キャンプ」
今年の七月に地区の育成会の世話係として小学生を連れてキャンプに行きました。去年入会したばかりで育成会のキャンプは初めての体験だったこともあり、前日よりカゼの症状が逃げたい気持ちを誘い、当日は早朝から大腸過敏で行きたくない気持ちが益々強く出てきましたが、出掛けてしまえば何とかなると思い出発しました。
あいにくキャンプ場は悪天候で周期的に大粒の雨が降り注いできました。カゼの症状が気になりましたが、子供達の世話をしながら出来たことを評価していくと、逃げたい気持ちも小さくなっていき次第にキャンプに興じるようになりました。雨に臆することもなく岩魚を追い掛け回している子供達の姿を見て、来年は小学生になる長女と一緒に来たいと思いました。
夕食はカレーライスでした。火を起こすことから始まって、食器を洗う者、ジャガイモの皮をむく者と、全員がそれぞれに自分の仕事は自分で捜して行動している光景を見て、「森田」の言う実践が培われているように思えました。
翌朝は昨日の天気が嘘のように晴れ上がり、小鳥達のさえずりが心を和ましてくれました。朝食後シートに仰向き青空の下、間近に流れる雲を眺めながら、とらわれの中にあった日々のことが懐かしく思い出されました。カゼの症状や大腸過敏といった心身症にも「森田」的に対処できるような気持ちが湧き上がってきました。
「総括」
神経質性格に対してマイナスの評価に偏っていたという人間性に対する認識の誤りが、そもそもの始まりだったような気がします。これについて神経質性格にはプラスの面もあり、物の見方や考え方は行動により変化すること、神経質性格のプラス面を評価し、実践を通して発展させていくことの大切さを教えて頂いたと思います。
また実生活に対して、かくあるべしでなければならないという自己中心的な一面や、部分的弱点を絶対視するといった幼弱性が、結果的には自らを縛り付けてしまっていたようです。「森田」の言う事実唯真ということを受け入れられるまでには程遠いと思いますが、日常生活において事実を事実として受け入れ、少しづつでもなすべきことが出来れば評価していきたいと思います。
これまで自分に対してあるいは実生活に対しての評価は、当たり前か、そうでなければマイナスの評価だったと言えます。「森田」はプラスの評価のあることを教えてくれました。最近では、マイナスの評価もありますがプラスの評価も少しづつ出来るようになってきました。今後、プラスの評価か、そうでなければ当たり前といった評価の出来る人間になれたらと思います。このプラスの評価が感謝の気持ちにもつながっていくような気がします。
不安とか抑うつといった症状に対するとらわれから解放されたせいか、異常感覚がまた強く感じられるようになりましたが、今はこれにとらわれることもなく過ごしています。妻に対して感謝できた日が、異常感覚を敵視せず受け入れられるようになった日でもあったようです。
最後に森田先生並びに発見会を育ててこられた諸先生方、あるいは集談会を築き上げてこられたS理事補佐はじめ幹事の方々に敬意を表すると共に、発見会の皆様にお礼申し上げます。
また入会の当日、声を掛けてくださったTさん有難うございました。特に日記指導をして頂いたKさんにはどうお礼申し上げてよいのか分かりませんが、この気持ちをとらわれの中におられる方々に少しでもお返しできればと思います。
体験発表を終えるに当たり、森田先生の神経質の本態と療法という本より一言引用させて頂き、まとめとさせて頂きます。
「病気を治すのは、その人の人生をまっとうするためである。生活を離れて、病気は何の意味をもなさない。……人生ということを忘れて、ただ病気ということだけに執着する。……つまり人を忘れて、病的変化ということのみ執着しているのである。」