克服体験記



■神経症を乗り越えた皆さんの投稿をまとめました。


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■ mandy  神経症のデパート

  私の心身の異常は幼い頃からの病院治療から語らなければいけませんので一苦労です。(笑い)
 私は病弱な子として生まれました。発熱、せき込み、夜泣き、悪夢などなど病弱で臆病な幼少期を送りました。夜尿症(失禁)もかなり大きくなるまで(小学校高学年)治りませんでした。母は私を生んで3歳の時に生き別れとなっています。
 特に首から上の病には、小学生になっても病院通いで、学校と病院を行ったり来たりの日々でした。いつも鼻づまりで鼻垂れ小僧でした。鼻で息が出来ないから苦しくてかけっこもできませんでした。やがて喉の奥に悪性の腫れ物(アデノイド)ができ摘出手術。そして、扁桃腺炎の手術。目の手術。耳の接合手術(毒性のただれ膿が発生し縫い合わせないと元に戻らない為)。小さいながら私は首から上を取り替えることはできないかと辛い日々でした。
 そんな日々を送っていましたので、病院ではある意味では人気者でした。(苦笑いです)一寸したことでも違和感を感じるのもこの幼少期があったからです。
 叱られる事への過剰反応。授業中の根気の無さ、無力感、のぼせ、めまい、卒倒感からよく保健室へ逃げ込む生徒でした。緊張するとすぐに「おしっこ」と情けない限りでした。黒板の字や部屋全体がグルグル回り耐えられない吐き気。病院の先生と父との会話で、「この子は生きていけるのかそれとも駄目なのか」というやりとりに恐ろしくなって逃げ出して、父は行方のわからなくなった私を捜し回ったそうです。
 父は私と違って、頑丈な身体の持ち主でした。柔道・剣道の有段者で、鍛え上げた肉体は、あの過酷な戦争を乗り越えて来た軍人でした。いつも女々しく情けない私を見ては嘆いていたものです。父は病弱な私の心と身体を鍛えるために、無理矢理道場へ通わしますが、泣いて家にも帰れない有様でした。それでも、二年間休みながらも続けたことが幸いしたのか、小学校も何とか卒業できたものです。しかし、授業中の眩暈感には手を焼きました。グルグル回っているんですから。(今は笑って語ることが出来るのですが)
 中学生に入るともっと厳しいものでした。学生服の詰め襟が喉に食い込みいつも息苦しさを味合わされることになりました。だらしなくボタンを外していると、先生に叱られます。当時の父は仕事の関係から青少年の補導などに力を入れていましたから、地元の教育関係者に顔が広い人でした。先生からはお父さんは立派なのに、どうしてお前はボタンを外して不良のような格好をするんだといわれ大変ショックでした。僕は息苦しいのを何とかしたいだけなのに……。気の小さな僕は不良にもなれないんです。(笑い)それどころか、まわりの目ばかりを意識して、良い子になろうと一生懸命頑張っているのに、思いと行動が空回りばかりしていました。病弱と思っていましたので解らなかったのですが、既に「死の恐怖」「疾病恐怖」「毒物恐怖」「縁起恐怖」「心悸亢進発作」「煩悶発作」「かなしばり」「頭痛」「朦朧感」「倦怠感」「過敏な空気圧から来る耳鳴り」「注意散乱」「記憶力減退」「多夢」「睡眠障害」「血液の逆流心理状態」「恐怖心から来る強迫的行為の数々−貧乏揺すり、チック症状、痙攣などなど」「対人的なものから発生する−羞恥心、異性に対する悪意、自慰による自己虐待」「赤面恐怖」などの下地が出来上がっていました。
 今はとても元気で毎日愛車(ロードレース)を乗り回していますのですっかり日焼けしていますが、学生時代は無口で一人でいることの方が好きでした。他人に気ばかり使うので一人の時間が唯一楽しい時間でした。幼少期はなぜか女の子とばかり遊び、一人でいるときは空想好きで、積み木や遊びや本の世界に入ることが大好きでした。そしてそんな様子を見て、父は情けない思いをしたものです。
 それでも高校時代は私にも春がやってきました。わずかの間でしたが、一人の女性と心が通い合い有頂天で学校がこんなに楽しいものとは知りませんでした。しかし、それも長くは続かず、彼女はダンプカーに跳ねられ植物人間になりました。眩しいばかりに健康な彼女が死の危機に立たされ、病弱な私が取り残される事への怒りははかり知れませんでした。学校への行き帰りに、あれ程嫌だった病院へ彼女を見舞う毎日でした。友人達と一緒に千羽鶴を一生懸命折りました。食事は喉を通らなくなり、胃潰瘍へと悪化しました。奈落の底で、昼夜逆転現象になる。不眠で眠られぬ夜が続き、学校では居眠りを繰り返し、ついに先生からしばらく休校するように言われました。
 何とか高校を卒業すると、これまで押さえに押さえてきた私の従順さから大反転して、父と大激論の末、家を飛び出し、何の支援も無しに上京しました。嫌な思いでの詰まった田舎から逃げたい思いからでした。高校時代から新聞配達をしていましたので、住み込みで新聞配達をしながら学校へも通いました。2年間の無理な生活が祟り、冬の寒い日に血を吐き病院へかつぎ込まれました。ああ、おれはもう死ぬんだなと覚悟したものです。むしろホッとしたような状態で、やっと彼女のいる天国へ俺も行くことが出来るとひねくれた喜びを感じたものでした。
 しかし、天はまだ見放しはしませんでした。学校を中退し、叔父の紹介で大阪の会社に勤め、これもヤケクソになって一生懸命に無我夢中で働きました。お陰で同僚や先輩から認められ、一目置かれるようになりました。叔父や田舎の七光りもあり、「そうか、君がXX君か」といって、幅広い人脈となり当時の私を支えてくれました。不思議とその間は神経症の出る暇もないくらいに忙しく働きました。親との不仲は相変わらず続いておりました。父は何とか私を説得して田舎に戻って欲しかったようです。
 一人暮らしに嫌気がさし結婚をする前の年26歳の冬、激務からついに身体のあちこちから悲鳴に近い状況が出るようになり一歩も動くことができなくなりました。数日前より風邪による高熱の中、無理をし過ぎました。そして、呼吸が思うようにできなくなりました。肺に空気を送り込もうとしてもどこかで抜けているような感じでした。
 翌朝、友人に車で病院に運んでもらいすぐに精密検査を受けました。医師からすぐに入院しなければ大変だと言われました。その時には心電図に異常があり、血圧も上は200以上あったそうです。
 私は信頼する学生時代の友人(内科医)に電話で相談し、ベッドを開けてもらいその日の夜に新幹線で岡山へ向かいその足で入院をしました。入院当時は、血圧の変動が大きく、荒い過呼吸状態が続きました。色々な角度から精密検査をしますと入院当初はかなり異常値が高かったようです。眼科では、眼圧が高く視野が少し欠けていました。私の友人は私の様態が落ち着くまで、症状を詳しくは説明してくれませんでした。心配をさせまいとの配慮からでした。大したことはないから、今は休息が一番だと笑って去っていく毎日でした。
 24時間体制での心電図の検査から、不必要と思われるくらいの血液検査、尿検査ばかりが続きます。2週間ばかりたち、食事もお粥となり少し元気が出てきますと、今度は内臓の臓器関係(心臓・肝臓・腎臓・膵臓・胃腸)の検査に入りました。これは長すぎる、もしかしたら大変な病になっているのかも知れないと心配で今度は夜眠れなくなりました。呼び鈴を鳴らしては、眠れないと訴えていました。安定剤と睡眠薬が加えられやっと落ち着くといった状況です。やがて、神経科に回され、脳波の検査が加わりました。眼科、耳鼻科での精密検査で幼少期の嫌な思いが浮かんできて胸が潰されそうでした。
 2ヶ月絶っても一向に経過を知らせてくれない焦りから、様態の回復に向かわないのです。しまいに私の友人は、私を信じないのかと叱る始末でした。とうとう観念した私は、退院までに3ヶ月間の日数を要してしまいました。一向に埒のあかない入院生活に、私は業を煮やし、一体私の身体はどうなっているんだとたずねますと、友人は検査の結果は今では正常になったが病変に変化がないので解らないと答える始末でした。そして、お前の考えと生活態度に問題があったのではないかと医者らしくない応答でした。そんな彼に私は「藪医者が、お前だけは信じていたのに」と、腹が立って仕方がありませんでした。
 異常がないのなら退院させてくれと、大阪へ帰ってきましたが、とても会社復帰のできる状態ではありませんでしたので、自宅療養3ヶ月しました。異常もないのに、少し歩いても疲れる。息が切れる。真っ直ぐに歩けない。春の桜を見ても感動もない。色彩が感じられない。無気力。自分の身体が自分のものでない。冷や汗が出る。暑くなったり冷たくなったり。ものを見ると白っぽくみえぼやける。微熱がある。数えあげればきりがない。雲の中を歩いているようでした。私のうつの時期でした。
 しかし、そんな中でも結婚。妻の献身的な介護の中から、医者巡り、やがて会社へも這うようにして行ったものでした。会社へ行っても仕事ができない。へとへとになって定時に引き上げる惨めさは何とも言えないものでした。いっそ電車に飛び込もうか。何度も考えたものでした。小さな時から死んだら天国へいけると天国を夢みていた私です。誘惑は到るところにいっぱいありました。話しかけられても耳に届かない。何時になったらこの暗いトンネルから出られるのか、絶望以外なにも打つ手はないのかさっぱり見えてこない辛い毎日でした。
 自殺を試みるも怖くてどうしても最後まで実行できない。どうすればいいんだ。どうすればいいんだ。この言葉を繰り返すばかりでした。医者もあてにならず、薬も効果が現れない。会社の近くにあった図書館へ行っては本で調べ、良いと思われるものには何にでも手を出しました。昔から読書だけは大好きだったので唯一の私のできることでした。医学書、心理学書、教養書、哲学書、宗教書など何にでも手を出して読破していきました。禅にのめり込み、キチガイのように朝晩坐り込んで無の追求もやりました。頭から水をかぶり修行者のようなこともやりました。
 そして、ついに森田療法に初めて出会ったのです。やっと私は私という人間がどういった人間であったのか解りました。自己否定と無理強いの自己容認の格闘にやっと終止符が打たれたのです。32歳、やっと私は生まれ変わることが出来たのです。そして、現在、52歳、ますます健康を謳歌している次第です。
 四方八方手を尽くし、万策尽きて森田先生に本で出会い、その後は自分(神経症)を捨て西へ東へ北へ南へ迷える神経質者を見つけては奔走する毎日です。今の私には病気はあっても病気はない。神経症はあっても神経症はない。とらわれはあってもとらわれはない。そんな今日です。

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■ モクナイト   自分の神経症とは何か?治るとは?

最近、自分が些細な事やいろいろなことに対して、観念的になりやすく、「かくあるべし」というとらわれが強いことをあらためて感じている。(気分的な、観念的なことを絶対的な事として自分に押し付けやすいし、思い込みやすい)しかし、今はそれと同時に「かくあるべし」という観念がただの気の病であるというふうにも感じることができるようになって、その部分、気の病から離れることも随分できるようになってきた。今までは、一度抱いた観念・不安はどうしても絶対的にとらわれやすく、気分がスッキリするまで、何度も何時間も考え、行動にすっと入れずに躊躇ばかりしていた。
(正しさにとらわれていたと思う。)
 こうしなければならないのではないか、こうあるべきなのだろう、という思いが強く(その思いにひっかかりやすく)、人情・事実に対抗して完璧を求め、観念的となって苦しみ、また、逆に、こんな事ではダメだ、かくあるべしという観念を取り払わなければならないという、新たな観念的ながんばり、執着、縛りとなって、気の病にとらわれて苦悩を重ねてきた。
 強迫観念に逆らってはイケナイ、ほっとくのが大切と教えられても、そこに意味を考えてしまうから、本当の意味で切り離すことができなかった。
 そんな、とらわれから離れることができるようになってきたのは、森田を続けたこと、皆さんの助言や態度から多くを学ばせて頂いたこと、そして、やっぱり主観的にとことん苦しんだということが大きいと思う。
 最近は、心に大きなモヤモヤ感や、漠然とした強い不安感を抱いたとしても、他人の思惑が気になったりしても、それを無視する(行動する)ことができるようになった。以前は、どうしても無視するための理由が必要だった。でも、最近になって無視するための理由も無視することができるようになった。
 (例えば、自分の対人恐怖などは、人に好かれなければならないという気の病であったのではないかと思うこともできるようになった。〜しかし、これは根深い〜)
 症状(主観的な苦しみ)に苦しみ、症状に対して考えつづける事、苦しみに反抗すること(楽になろうとすること)で、ますます症状にとらわれて苦しむという悪循環から、抜け出せるようになってきた。それにより、強迫観念が絶対的なもののようにとらわれていた心が(強情さが)、精神的気のせいであると、思うこともできるようになってきた。
 症状を考えない。それは症状を考えない(症状に対して考えない)理由も考えないことである。それが行動、実践である。これは、心のモヤモヤ感をスッキリさせたい気持ちの強い自分には相当のストレスとなる時もあるし、わりとあっさり切り離せるときもある。とにかく、あっさり切り離せる時はあっさり切り離し、大なるモヤモヤ感・圧迫感のある不安な時も、これを無視できない気持ちをも無視し、関わらない努力であり、前向きな態度であり、苦痛そのままである。とにかく、神経症に対する言い訳をしないのである。(病を持ちつづけないことである。)
 ここまで、自分としては、少々行き過ぎたことも書いてみたけれど、でも、やっぱり今一歩、治っていないとも思っている。
 森田神経質に対して、治るという言葉で説明しようとするとわかりにくくなると思う。治るとは、森田的に言えば、抽象的な言葉で、観念的になりやすいと思う。今の自分は、強迫観念に従わない受身的な努力はできる。対人恐怖も治ったと言える。しかし、その先の努力、込み入った努力がしたい。(少ししかできていない。)実生活での努力に躊躇してしまう。(楽な方にいってしまう。)治ることが、良いから、正しいから、楽したいからとか、観念的な治癒像通りになることだと思っていたら、それは、治らないということがわかった。
 それに、自分は、前持った理屈では治らないということがわかったし、必死に、治るためのことを考えていても治らなかった。
 そして、治ることに理由などいらないということがわかってきた。
(当たり前のことなのでしょうけれど、それが、今までわからなかった。)
 今の僕にとって、症状とは、逃げていることであり、手を抜いてしまうことであり、気分に流される(気分に意味付けしてしまう)ことであり、反抗してしまうことであり、このことを受け入れないことであると思う。
 そして、治るとは、苦しい時は苦しいという事実<覚悟>でしかないのだろうと思う。
 ただ、生きるとということは、困難が多くて、自分の思い通りにはいかないことが多くあって、でも、辛くても生きている限りは、希望をもっている、人生をあきらめることができないというのが、神経質であり、事実であり、そしてそれを認め、受け入れることが治る部分ではないだろうかと思っている。


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■ まっちゃん   私が発見会活動・実生活の中から認識したこと

・症状があろうがなかろうが、責任をはたしていくことで人からの信頼は得られる。
・何の弱みもない人間は、事実として一人もいない。
 また、弱みのある人の方が人間らしい。ある面、症状も人間らしい。
・あんなことをしてしまった、こんなことをしてしまった、と後からすごく葛藤するが、その葛藤が次の力になる。
・十人いれば、十人に好かれたい。
 しかし、三分の一気の合う人がいて、三分の一気の合わない人がいて、残りはどちらでもない人がいて、その位でよい。
・PTAの会合など嫌であるけれども、周りの人は、どんな行動をとり、どんな話をして、どんな態度をとるかを知る機会である。
 苦しい反面、楽しいことも大いにある。
・人間関係も、つきあう中でうまくいく時も、いかない時もある。
 また、ちょっとしたことでうまくいくこともある。長い目、長いスタンスでみていく。
・誠実さなら負けない。自分には、誠実さというすばらしいものもある。
 これで生きていける。
・人は他人のことをそんなに見ていない。見ていたとしても、すぐに忘れる。
 うわさも言い尽くせば忘れられる。
・人との意見のくい違いはあるが、相手との勝ち負けでなくて、問題を一緒に考える。
 同じ方向を向く。一緒に考える態度が大切である。
・無理せずに、自分の持ち味でゆっくりといければよい。人には、いろいろな生き方がある。
・「自分はこう考えます」と、自分のできるところから、自分を表現していけばよい。
・悩むこと・落ち込むことも、決して悪いことではない。そこでしっかりと自覚する。
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■ オヤジベビー   神経質にどうしてなるか

T 神経質症の特質

1. 器質的な病気でもなければ、いわゆる精神病でもない。人間性に対する誤った認識にもとづく精神的からくりによる。

・ 心臓がドキドキするので、何回も検査した。
・ 真剣に精神病だと思った。

2. 健康人なら誰にでもある、またなくてはならない心理的・生理的現象を異常もしくは病気と思いこんで、これを自分の人生の一大障害と見なして、何としてでも治したいという強い意欲をもっている。

・ これ(心臓不安・会議恐怖)さえ無ければ、以前のように活発で明るい自分に戻れる。

3. 自分の症状や心身の状態について反省批判の能力があり、抑制力もあるから、そのために自殺したり、人に危害を加えるなどの没常識的、あるいは反社会的な言動はしない。

・突然気が狂って、家内に危害を加えたりしないだろうか?


U 症状の三つの型

普通神経質症 :単に自分の苦痛または病的異常に直接に執着し心配する。不 眠 もうろう感 胃腸不快感 頭痛感

強迫神経質症(恐怖症) :自ら思う事を思うまいとする心の葛藤のこと。恐怖を恐怖 しまいと恐怖するもの。赤面 書痙 震え 読書恐怖 刃物 不 完全 疾病 不潔 吃音 嫌疑

不安神経質症(発作性神経質):心悸亢進発作 呼吸困難 不安


V 神経質をつくる精神的からくり

1. 外的要因として、当人にとって困難な環境条件がある。

・ 社会人2年目で結婚する。

2. 内的要因として、強い適応不安、人間性に対する誤った認識。

・ 持って生まれた性格
自己内省性…子供の頃から、「自分の体の中に何か悪いものがあるのでは?」と思って恐怖していた。

心配性 …心臓発作で急死した人のようにならないだろうか?

執着性 …物事にこだわり易く、融通がきかない。

強い欲望 …向上心が強く、完全主義。若いが、仕事・家庭ともバッチリとこな して、充実した生活を送りたい。

・ 育った過程からくる幼弱性(観念的・依存的・自己中心的)
次章Wで書いてあるような歪んだ見方・考え方

・ 上記の、
(素質)持って生まれた性格(自己内省性・心配性・執着性・強い欲望)

(素質)幼弱性(観念的・依存的・自己中心的)
×
外的要因:当人にとって困難な環境条件、が加わる。
人間性に対する誤った認識

               ↓
強い適応不安

3.精神的からくり:強い適応不安と人間に対する認識の誤りから、健康人なら誰にでもある不安や違和感など心理的・生理的現象を異常と思いこみ、防衛単純化のからくりが働く。部分的弱点の絶対視、異物化のからくり、精神交互作用が働いて、症状が発展固着する。

防衛単純化のからくり:生存を脅かすいろんな要因から、とらわれた一つの症状に 絞って、これさえ無ければと全力で克服しようとする。

部分的弱点の絶対視 :他人と自分を比較してみては懐疑的になり、(この場合自分 の性格の方を疑う)人を羨み、自分のこの点が駄目、どうしても嫌、などと他人から見ればそれほどでもないことを深刻に受け止めて悩む。
自分は消極的な性格だから駄目なんだ

異物化のからくり :不安や不快感を、体に刺さったトゲのような異物とみなし、 すっきりとした感情をそれが邪魔しているように思う。

精神交互作用 :ふとした時に、不快感を覚えそれに注意を向け、取り除こ うともがくと、ますます注意が不快感に向き、いっそう不 快感がひどくなる。
ふとんに入ってふと、心臓の鼓動が気になる。気にすまい と思えば思うほどますます注意が向いてしまう。


4. 実生活上の悪循環によって症状はいっそう強化される。症状を目の敵にしてこれと戦い、本来の欲求、目的(結婚・仕事)を見失って、行動は逃避的となるので、困難な環境条件はいっそう悪化し、症状もさらに強化される。


W 症状によって歪められるものの見方・考え方

1. 劣等感的差別観、劣等感的投射――観念的・気分的で事実を見る目が曇る。

劣等感的差別観:他の人は平気なのに、なぜ自分だけがこんなにしんどいのか?
劣等感的投射 :自分の症状などが相手に見透かされていて、そのために自分を 嫌い、軽蔑し、見下している、と思い込む。
バドミントンでうまい人に相手してもらう時に、「相手は(僕が下手なんで)嫌がっているんじゃないか?」と勝手に思い込む。

2. 自分の症状・悩みのことしか考えられず、家族やまわりの人びとのことを思いやることができない――自己中心的。
心臓のことしか考えられないで、周囲のことを考えず、結婚前なのに職場を変わっ た。

3. 他人の理解と同情を求めて慰めを得ようとする。グチを言う。自分で判断し、自分の責任で行動するのがおそろしい、何でも他人にたよる――依存的。
小さい頃からそうだった。甘え。

4. 手段の自己目的化:症状を取り除くことばかりを考え、それが目的と化す。まずは症状 を取り除いてかっら行動しようとするので、症状を取ることが一番 の目的となり、全精力をそれに尽くし、本分がおろそかになる。

オヤジベビーの場合、一言で言えば...
「自分は消極的な人間だから、なにをやっても駄目なんだ!」 という思いが根底にあった。神経質症に陥った根本。

治ったのは...
どうしようも無いという窮地に追い込まれた、から。そこから、「目の前にあることを、 ひとつひとつコツコツと片づけていくほかに無い」ということが分かった。



★神経質症にどうしてなったか?オヤジベビー編

1. 症状
心臓不安、不安発作、不眠、会議恐怖 他


2. どの時期にどんな症状が起こったか
A.23才の頃、社会人2年目で結婚。心悸亢進発作、それに関連して不眠。その頃はま だ森田療法のことは知らず、困難な環境から逃げることでなんとなく症状はおさまる。
B.27才の頃、東京出張の帰りに不安発作で倒れかける。その時はなんとか大阪に帰ったものの、その年の年末、営業の帰り道の阪神高速池田線加島付近で心悸亢進発作。
緊急駐車帯に車を停めて救急車を呼ぶ。病院に運ばれて心臓に異常なし。またその2 〜3日後にも加島付近の、今度はお得意さんに居るときに予期不安。パニックになり お得意さんに救急車を呼んでもらう。この時メンタルヘルスを新聞で知り、mさんと出会う。生活の発見会に入会。7〜8年後、治ったと勘違いして退会。
C.会議時のように、逃げられない場所での不安発作、発言する時の過剰な緊張による吃音恐怖などにより、平成11年5月再入会。漠然とした不安感もあった。


3. 症状にとらわれた原因

外的要因
A. 社会人2年目のまだまだ仕事も半人前な時に、結婚するという困難な環境条件。
B. 家庭では長男が生まれ、仕事上では、問屋である弊社の頭を飛び越してうちのお得意さんと直取引をされたりした。(困難な環境条件)
C. 前年、青年会議所である役を全うした。一生懸命してまずまず成功したのでホッとした。だが、その反動からか落ち込み、また、会議で吃ったことをある人に指摘され、人前で話すことが困難になった。そんなとき今度はPTAの役が1年後に確実に回ってくることになった。あと1年も先の入学式での挨拶のことがとても苦痛に感じられた。しかも私の父が少しボケ始めてきて、社長を引き継ぐことになった。(困難な環境条件)

内的要因
・持って生まれた性格(自己内省性・執着性・強い欲求・心配性)
・ 生育過程等からくる幼弱性(観念性・依存性・自己中心性)
・ 幼弱性から来る人間性に対する誤った認識
・ 強い適応不安

4. 症状に陥る過程(自分のことから)
・社会人2年目での結婚。 (困難な環境条件)
・ 仕事上での失敗。試験のこと。急死した人のこと。
(精神的な強い不安)
・ 結納・式場選びのことなど、いろんなことで疲れていた。
(肉体的な強い不安)
・ 急死した人のことが引き金になって、自分の心臓に意識が向いた。
・ 不眠が出たときは、「昼間に肉体的に疲れていないから」と炎天下でジョギングをしたり、「精神状態が悪いのは感情をずっと抑えているからだ」と、悲しくも無いのに思い切り泣いてみたり。
(誤った努力方向・現実逃避)
・ 部分的弱点の絶対視・防衛単純化・精神交互作用により、症状として固着。
・ 現実生活がますます後退する。

5. 課題
幼弱性を打破して、神経質性格を生き方・生活に生かす。
・ 行動を通して考える(経験の幅を広げる・客観的に物事を判断する)
・ 自主性・自立性を身につける。
・ 社会と自分・他者と自分との関係性を考える。

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■ マサタケ   森田先生の考えを念頭に日々生活してます〜♪




■  hinatiko  
こんにちは。
特別、自分の体験記ではないのですが、
このHPを見た文章の中で自分が改めて確信した嬉しさを表現したくて
書き込みしています。

平等と差別を綴った文章がありましたが、
まさに自分はその内容にあてはまりました。
自身でも、周りに対して不平不満をもらすことも
薄らうすらと自分の弱い部分を象徴化していると感じていました。
失敗しても直ぐに理由をつけて自己正当化する帰属スタイル的には良いのかも
しれないが、土壇場で自分から逃げている気がしてならなかったんです。
頭ではポジティブへの方程式が分かっていても実践に伴わない苦しさがありました。
(今でももちろんありますが)自分の内面に注目し過ぎる事は、自分の心に敏感になり
不安、焦り等の感情が生じてくる事がわかりました。
そして、悲劇のヒロインである自分を他者と差別化し正当化する事で
で、社会や友人家族といった結び目からどんどんほつれてしまい、
内にこもっていってしまう。
何も考えずに「ぱーーーー!」と自分の心をうきうきさせるような
事柄をたくさん考えついたことを行動に出して行くことが
心の気晴らしになると思います。
そうなると、よいアイデアや気持ちがどんどんあがるし膨らむしで
楽しくなってくる。。。
本当に心の向ける方向を少しズラスだけでいつもと同じ空気が
新鮮になるなんて、不思議ですよね。
て、改めて感じた瞬間でした。
あー、言葉に文字にするだけで心はればれ〜〜〜。

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■ だいちゃん   ●私の宝物
私は、幼少の頃より線が細い子であり、両親が非常に心配しておりましたが、野球、水泳となんにでも手を出すとても元気な少年でした。学生時代は、趣味に没頭する毎日で、大好きなバンド活動も積極的にこなしていました。そんな反面とても心配性で、ガスの元栓を何回も見に行くとか、○○回で○○したら自分は死ぬんじゃないかと不安になったりとか、自分の発言が相手を傷付けて自殺するのではないかとその人の様子を伺いに戻るとか、車で出掛ける時、家の近くの信号で本当は大きな音も聞こえて居ないのに「人をひいたのではないか」と不安になり、バンドの練習に間に合わなくなるのに20分かけてその場所まで戻って確認して安心するという事が度々あったのですが、その時はまさか自分が神経質だとは夢にも思ってもいませんでしたので、別に変だと意識せずまた目的地に向かうといった状態でした。
 
私は釣りも趣味で遠出をする機会が多くあり、その日も仕事を終わってすぐに出掛けると言った有様で、たまたま過労による寝不足があったのでしょうか、高速道路を運転中に中央線にひき付けられるような感覚に陥り、とても恐怖に感じました。それから私は高速道路に乗ることが非常に辛くなり、
「なんだかおかしい、どうして?」と迷いを重ねていったのです。
とうとう耐え切れず大学病院の眼科と精神科を受診しても、「あんまり気にすることはない」と異常なしで、一体何が原因なのだろうと更に悩みは深まっていくばかりでした。
 
会社では入社してからずっと夜遅くまで仕事をしていた私が、5年目で急にじっくりと考えて落着いて仕事が出来る部署に移動となり、比較的時間も余ることが多くなりました。気持ちだけが空回りしていた私は「もっと仕事をしなくてはならない」「もっと頑張らなくてはならない」といった気持ちで一杯でした。とうとう25歳になる9月24日の誕生日、私はいままで体験したこともない不安感に襲われ、発作を起こしました。心臓がバクバク、手足は震え、得意なパソコンが上手く操作できない、びっくりした私は母親に電話をして苦しさを訴え、早退し会社にまで迎えに来てもらい、そのまま近くの心療内科に飛び込みました。薬は一週間ごとに増えて行きます。「電車が怖い、卒倒しそうだ、自分が自分じゃないみたいだ」と訴えてはまた一錠、「自殺しそうだ、気が狂いそうだ」と訴えれば、「じゃあ、この薬は○○に効くから飲んで下さい」とまた一錠追加です。私は母親に「もう死ぬかもしれない」と泣きながら訴えて困らすこともありました。しかし、そんな中でも会社への通勤だけは決してやめることはありませんでした。
 
私は不安と戦いながら、自分の症状をインターネットで打ち込み、検索することで森田療法のことを知りました。そこには「恐怖突入」という言葉があり、それから私は不安があっても目的から決して逃げないと心に決め、毎日を過ごしました。しかしながら、まだ服薬は続けておりましたので、薬を飲まずに治療するという森田療法と、薬物療法に大きな葛藤があり、もし飲んでなおるならと迷いながらも服薬を続けながら森田療法の勉強を続けていきました。また、この時期に生活の発見会の存在を知り、森田療法で治るならと、当時通っていた心療内科をやめて、京都宇治の森田療法協力医の先生に受診を申し込みました。先生は、「まず発見会に入会し、集談会に参加しなさい。君の言う通りの薬を好きなだけ何ヶ月分でも処方する。けれども、本番は薬を止めてからだ」と私にアドバイスを下さったのを今でも覚えています。

そんな中、私はインターネットで「メンタルヘルス岡本記念財団」のホームページを知り、その中にあった体験フォーラムに参加することに決めました。そこは、Q&A方式となっており、個人の悩みを書き込んで管理者の方が解答するというものでした。そこに私はこんな内容で困っていますと書き込みをすると、丁寧に解答を下さいました。苦しい時、とても支えになりました。
ある日私は東京へ2ヶ月間の出張を命じられました。行こうか、断ろうか迷いましたが、逃げてはいけないと意を決し東京へと出張に向かいました。東京では、薬を飲みながらも出社、安定剤で頭が朦朧とし集中できない、移動中の地下鉄の電車では頻尿恐怖で疲れ果てていました。現地で泌尿器科を受診してももちろん異常はありません。けれども私は「ここで逃げて帰ったら終りだ」と最後の最後まで自分の力を出し尽くして一つ一つの仕事に一生懸命取り組みました。帰ってから、私はどうしても治したいという一心から生活の発見会に入会、参加することにし、積極的に財団のホームページにも参加するようになりました。

そして随分と回復した私は、そのホームページの管理者の方にどうしてもお礼が言いたくて会いたくなり、そのことをページでお話しました。すると、私が参加しているこの自助グループに来てくださいと言われ、その会に逢いに行きました。それがmandyさんでありました。私はこの方のお話を聞くうちに、この人についていけば治ると確信しました。その頃、このままではいけない、森田先生、mandyさんが「病気ではないから薬は必要ない」と言う。よし、もう薬は飲まないぞ。どうにでもなれと、少しずつではありましたが薬とも縁を切ることにも無事成功し、森田に没頭していきました。現在のメディアでは、インターネットというツールははあまり良い評価を受けませんが、私の場合は違いました。初めはインターネットという世界でも、そこから現実の世界へと足を踏み入れ、どんどんと同じ悩みを持つ方々との交流を深めて、森田を理論療法として捕らえるのではなく、体得、実体験として学んでいく事が出来たのです。

また、mandyさんに教えて頂いた基礎体力の重要性や生活リズムの大切さにも気付き、自分の心を支える肉体を作るため、片道15kmある自転車通勤を始めました。発症当時の私は食欲が減退して一杯のご飯を食べるのが精一杯でしたが、今では食欲も回復し、三度の食事が本当にありがたい。食欲がありすぎて困る程です。生きていることにこんなに感謝した事はいままでありませんでした。

いま私は、不安は不安のままで手を動かし足を動かし、頑張っています。決して嫌な感情を一切排除でき感じなくなった訳でもありませんし、症状が出なくなったのでもなし、性格が変わったのでもありません。しかし、自分に対する理解が随分と深まった、受け止め方が変わったとは言えるでしょう。森田療法で大切なことを気付かされました。それは「生身の人間」であったという事です。調子が悪い時もあって当たり前なんだと言う事。時として、とらわれ、はからいをするだろう。それでいいじゃないか。ただ、感情の事実は事実として認め、今置かれている境遇に、与えられた仕事に反応し手を出していく、まずは何でもやってみなさい。神経質は決して病気じゃないんだよ、人間である証拠だよと。

森田先生を初め発見会の先輩方は私にそんなことを教えて下さりました。
私は神経質であったことを感謝し、また家族にもとても感謝しています。
神経質は私の宝物であり、良い面も悪い面も個性です。
これからも生涯森田に関わり学んで行きたいと思います。

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■  naoko  
森田療法に出会ったのは18歳の時でした。症状の為、学生生活に支障をきたしていた時に、本屋に行き、解決法はないかと買った本(大原先生)に森田療法の事がのっていました。そして森田療法の本を購入しました。
 
中学3年生の高校受験間近に、ノイローゼ気味になり、それから症状が出始めました。中学の2年の終り頃から数学の塾に通っていました。おじいさんの先生に一対一で教えてもらっていました。私は塾に行く事や、2時間という長い時間、正座をしてということ、嫌いな勉強という事が嫌で毎回、膨れっ面な怒ったような顔をして授業をうけていました。
ふと、自分の態度を振りかえり、「私のとってる態度が先生に嫌な思いをさせてるんじゃないだろうか?ストレスになってるんじゃないだろうか?」っと考え始め、自分のとってきた態度に自己嫌悪を感じ始めました。そして、先生がおじいさんであるということから、ストレスを与えたのではないだろうか?っと心配になってきました。
先生の家から帰る時、先生の家を振り替えり見てみると、いつもならすぐに消えるはずの電気がその日は消えていませんでした。 「もしかして私のせいで先生たおれてるんじゃ!!?」っという不安に襲われました。けれど、「そんな事ある訳ないよ!」っと必死で自分で言い聞かせました。けれど、その日の夜は心配と不安で気が狂いそうになりました。
「私のせいで先生を死に追いやってしまった、、」っと言う考えで頭がパンクしそうになり、今にも狂いだすのでは、、っという心境でした。そんな時、ふと以前に友達が言っていた「心配しすぎると胃が気持ち悪くなるんだって、、、」っという言葉を思い出し、激しい胃の不快感を感じ始めました。
次ぎの日、学校で先生宅に電話をかけるけれども誰もでませんでした。「きっと入院してるんだ、、」っと妄想は悪い方にばかり広がりました。その次の日に先生に電話はつながり、とても安心しました。
これがきっかけで、自分の態度や言葉で人を傷つけるかもしれない、人を死に追いやるかもしれないっという恐怖に襲われました。
高校に入学してから、人と話す時も絶対相手を傷つける様な言葉を出さない様にしていました。胃の気持ち悪さも治らないまま、病院を何度も受診したりして、、。
次ぎ次ぎに体に症状が出ました。喉に異物感を感じ息がしぬくくなったり、頭が割れるかと思う程痛くなったり、、被害妄想がでたり、、。そして、病気恐怖、雑念恐怖。卒倒恐怖、不安恐怖、縁起恐怖、罪悪、不正、自殺恐怖、嫌疑恐怖に陥り、自分が狂いだすのではないだろうか?精神異常なんだっと毎日泣き続ける日が続きました。

親にも言える訳もなく、1人悩んでいる日が続きましたが、ついに自分でも耐えきれなくなり母に泣きながら、それとなく話しました。
そして精神科受診することになり、精神科の先生にカウンセリングを進められ、通いはじめました。次第に精神の安定を取り戻し、学生生活も過ごしていました。けれど、症状は出ては消えの繰り返しでした。
高校3年の時に、腸が過敏に動き鳴ったり、下痢になったりするようになりました。静かな場所や、人がたくさんいる所にいると「お腹が鳴ってしまったら、、」っと余計緊張して腹鳴しました。又、トイレに行けない場所になると腹痛を伴いました。教室でテストを受けることができず、保健室で受けたり、遠足や友達と電車で遊びに行く事ができなくなりました。 
自分ではコントロールできず、カウンセリングと精神科で安定剤っと漢方を処方してもらい、なんとか高校生活は終ることができました。

専門学校に入学しても何も症状は変わらず、余計にひどくなり、通勤の電車でも苦しくなました。電車や人がいると余計に緊張してしまい、腹痛、嘔吐感、呼吸困難気味になり、学校の授業にもついていくので精一杯でした。そんな時に、森田療法の本に出会いました。本には私が今まで悩んでいたことが、すべて書かれてあり、とても驚きました。
そして、インターネットでメンタルヘルス岡本記念財団を知り、体験フォーラムに参加するようになり、そこから発見会に非会員っとして会にも参加していました。 体験フォーラムでは、mandyさんにいつも「症状が消えません」っと訴え続けていました。私より、後で森田を学んでいる方は、どんどん良くなっている様子が伺われ「どうして私はよくならないんだろう、、」っと焦りばかりありました。

それから森田療法に挫折しそうになり、もう一度本気で森田療法を勉強しなおそう!っと考え治し、mandyさんのアドバイスを元に健康な体造りを目ざしました。mandyさんや、大阪の発見会の方が自転車に乗ってる様子を聞き、私も自転車に乗ってみたいっと思い、mandyさんに相談し、自転車をゆずってもらいました。大阪の発見会のみなさんとの新しい出会いっと素敵な自転車に出会い、気分本意だった
自分から今は、目的本意の行動が少しずつとれるようになっている自分に変わりつつあるように思います。今では昔、あれ程悩んでいた時期が嘘のように思えます。自然な感情を認めず、こうあらねば、、という「かくあるべし」に取り憑かれていたようです。本当に森田療法や、先輩方に出会えて幸せだと思います。

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■ yakko  
神経症の始まりは、幼少の頃に観た原爆のアニメ映画がきっかけです。死んでゆく人々の姿を観て「死んだらどうなるか」を考えるようになり、その度に恐くて泣きました。恐い夢でうなされる事が多く、眠る事が恐かった日もありました。私は体が丈夫ではなく、病院によく通いました。そして一人っ子で、小さい頃から落ち着きが無く、怒りっぽくて負けず嫌い。そんな性格のせいか、何故か友達が出来ても長続きしません。「やっぱり一人っ子ねえ」と、言われるのがとても嫌でした。それに母が近所の人などに「一人っ子に見えないように育てているつもり」と言っているのを聞き、一人っ子はよくないのだと思いました。そう見られないように「しっかりして強くなろう」と考えました。この考えが、後に自分を苦しくさせ、神経症を悪化させる原因となったのです。 

小学校の頃「どもる」「舌足らず」とよくからかわれるようになりました。それをきっかけに、元々好きだった本を、もっと読むようになりました。本読みがうまくなれば、からかわれなくなると考えたからです。そのうち空想の世界に入ることが多くなりました。一番楽しい時間だったように思います。その頃くらいからだったでしょうか。耳元で誰かが時々話し掛けてきます。2、3年で治りましたが、今から思えば幻聴だったのかもしれません。それに横断歩道の白線の数を数える事がとまらなくなりました。ボーッとして車に引かれそうになったこともあります。それ以来、車に対する恐怖心が生じるようになりました。
 
中学2年生の時、理由はわからないのですが、クラブの友人から仲間はずれにされました。そこで、仲の良い友人に相談しました。ショックな事に、友人が私を無視ししている人に告げ口をしていたのです。そんな事が何回か続き「自分の本心は絶対誰にも言ってはいけない、弱みを見せてはいけない」と、考えるようになりました。練習がきつかった事も加わり、元々弱かった胃が悪くなっていきました。おかゆの弁当を持っていくような状態が続きました。「このままではいけない、もっと強くならなければ」と言い聞かせ、ますます辛くなっていきました。もう学校に行くのが苦痛でたまりません。やがて一年経った頃、私をいじめていた子がクラブを辞めたことで、状態は元にもどりました。しかし、さらに強い自分にならなければと思うようになりました。
 
高校一年の終わり頃、急に訳のわからぬ強い不安や眩暈、寒気、吐き気に襲われました。一時間ほどでおさまりましたが、発作への恐怖感は消えません。これが不安神経症の始まりです。それから人ゴミに出ると、周りが自分に突き当たってくるような感じが起ってきました。常に雲の上を歩いているようで、人と話をしていても他人事のような気がします。目を閉じると死んでしまう。目を瞑っていても、まぶたに映る光が気になるなどで眠れない日々がはじまりました。自分が何を考えているのかわからない、弱い自分を認めたくない。自分は何なのか、誰なのかと悩みました。そのうち無気力になっていき、死の恐怖が薄れていきました。一歩間違えれば死んだかも知れぬ危ない思春期でした。
 
高校卒業後、文章を書く事が好きだったので、高校時代の担任の先生に勧められた学校に通いだしました。書くことで感情を発散させていたせいか、症状が気にならなくなっていきます。就職は金属プレス工場で、品質管理を担当する事になりました。慣れてきた頃、新規分野の製品管理をまかされ、日々充実していきました。疲れも忘れるくらい頑張りました。しかし、好景気の波で忙しくなり、会社の体質は「質より量」になっていきます。それにより品質管理上のトラブルが堪えなくなりました。それから私は製品検査の判定の事で、帰宅してからも気になり眠れなくなる日が続きました。早朝に胃痙攣を起こすことも多くなりました。苦しくても「出社しなさい」と呼び出しがかかり、休む事を許されません。いつしか体中湿疹だらけになり、過敏性腸炎が再発。食事が喉を通りません。食事にも気を使いすぎ、疲労感が抜けなくなりました。いつ、お腹が痛くなるかと思うと電車から飛び降りたくなります。夜中に発作が起き、母に連れられて救急病院に何度か行きました。自分はこのまま死ぬのだと、何度泣いたことでしょうか。「こんな事ではいけない。強くならなければ」と、また昔の癖で一層頑張るようになりました。
 
1995年1月17日、阪神大震災、私の中で天地がひっくり返るような大災害が勃発しました。私は、ますます恐がりで泣き虫になっていきました。多くの人が心を病み、世情を反映してかカウンセリングが大流行。すっかり気が滅入って自分が嫌になっていた私は、カウンセリングの学校に通うことにしました。症状脱出のきっかけになればと思ったのです。功を奏し、勉強しているうちに、だんだん自分を許せるようになっていきました。しかし、それも長くは続きませんでした。
 間もなく、やりたい仕事ができました。経理の仕事です。資格をとり退職を申しでたところ「子会社で人員に空きが出るから来ないか」と、話をもらいました。子会社といっても、元々在籍していた本社の事務所の一部を間借しているだけです。その同じフロアには、何かと声をかけてくれていた年配の女性社員が二人いたので、何とかやっていけるだろうと思いました。
 ところが女性社員は、今までとは全く違う冷たい態度で私に接してきます。「あのまま辞めてしまえばよかったのに」と。後で詳しく話しを聞くと、人員に空きが出たのではなく、私が入社するから辞めさせられたそうなのです。何かと気に障るらしく、女性社員が入れてくれたお茶をすぐに飲まないと怒鳴りつけてきます。たまに優しい言葉をかけてくれることもありましたが、すぐに豹変しました。「常に見られている。何か言われる」毎日ビクビクしながらすごしました。仕事が急に暇になった事も加わり、無気力状態になっていきます。「このままではいけない」と、再び簿記の学校に通い始めましたが、一度目の試験に失敗。二度目の受験前から症状が再び出始めました。問題が解けない事に焦りを感じ、不安感に襲われました。やがて動悸で苦しむようにもなりました。丁度その頃、女性社員が一人辞める事になったので、出向元の経理も兼務する事になりました。相手が恐い半面「強く、毅然としなければ」という私の態度が余計に反感を買ったのかもしれません。もう一人の女性社員との仲も悪化し、上司と出向元との板ばさみに悩むようにもなりました。
 簿記の勉強も「頑張らなければ」と思えば思うほど焦り、頭に入らなくなっていきました。そんな状態でしたから、2度目の受験も失敗。そのころから、また過敏性腸炎が悪化してきました。お腹の事を考えると、食事をとることが恐かったので体力も落ちていきました。3度目に挑戦しますが、授業が始まり戸が閉まるだけで胸が締め付けられ、そして問題を見ただけで言い得ぬ恐怖感に襲われます。暗記をしなければならないのに本に集中できません。雑念を振り払おうとするうちに、本が読めなくなりました。それでもやらなければという気持ちはありましたが、勉強しているのかいないのか解らないような日々を送っていました。ある日、血圧が急に下がり、身体がしんどく這うのが精一杯になりました。それからもあまりに眩暈が酷いので、近所の会社の人に車で乗せて行ってもらったりしました。が、お腹が痛くなった事をきっかけに乗れなくなりました。電車通勤を再開、お腹が痛くなっても大丈夫なようにと各駅のトイレの位置と車両を確認。しかし、どうしても電車に乗れず、会社を休む事もありました。

 それから間もなく、父が急死。身にも入っていない勉強と、症状のことばかり考えていた自分を情けなく思いました。「少しでも家族の事を振り返っていただろうか。もっと大切にしてあげたかった」改めて優しかった父の存在の大きさを感じ、後悔の念にかられました。「泣いてはいけない、悲しんでいてはいけない」と思えば思うほど苦しくなりました。そのうち、今までに味わったこともないような痛烈な不安感に一日中苛まれ、会社へ行く事ができなくなりました。物音が頭にガンガン響いて逃げ走り回りたくなります。「このままでは気が狂ってしまう」と思い、心療内科を受診。頻脈で心臓の検査もしたのですが、異常ありませんでした。
 
約一年後、症状が気にならなくなってきたので勝手に薬を止めました。が、すぐに再発。外に出るのが恐くなり、階段の上に立つと真逆さまに落ちていくような感覚に襲われます。不安症状も前よりきつくなってきました。さらに悪いことに、社用で出かけた際に車で接触事故を起こしました。心配性が高じて、車で会社の用事をする度に事故を起こしたのではと確認するようになりました。もともと、なんでも死に結び付ける癖があったのですが、さらに酷くなりました。考えを振り払おうとすればするほどつきまといます。今度は前と違う心療内科へ行き、そこでカウンセリングも受けました。しかし、一向によくなりません。薬だけでは、一人では治せない。もう、このままではイヤだ。普通に生活を送りたい。院長から森田療法をすすめられ、何処か学べるところはないかとインターネットで調べたところ、生活の発見会を知りました。すがるような気持ちで初心者懇談会へ参加。とても親身になって話を聞いていただきました。私は苦しみを訴えては泣いていたのを覚えています。もうここしかないと入会を決め、大阪金曜夜間懇談会に出席。皆さんに励ましていただき「ここに来て、みんなと行動すればきっと治る!」そう感じました。
 それからは月一回の懇談会が待ち遠しくてしょうがありません。感情はコントロールできないもの、基礎体力が必要な事など、目から鱗の日々です。何せ、今まで逆の事ばかりしていたのですから。そして何より『死への恐怖心があってあたりまえ』という事を知りホッとしました。病気ではない、自分だけが苦しいのではないということが励みになりました。やがて症状が軽快し、やりたい事などの欲求が大変強くなってきました。辛い事実を直視せず、いつも逃げようとしていた自分に気付きました。その頃、同じ不安神経症だったM先輩会員が私の症状の話を聞いてくれました。「そんなに再発ばかり繰り返しているなら、一年以内にきちんと治さないと一生治らないよ」と、いうアドバイスにハッとしました。ただ環境が楽になっただけなのに、治った気になり始めていた自分に気がついたのです。「何が何でも治さなきゃ。治らないのは嫌だ」と、そう思いました。
 どうしたらM先輩の言う転機が訪れるのかと一生懸命に森田書籍を読みました。その転機はすぐにやってきました。丁度、協力医の大西先生が来られて講義が終わったときでした。同じ不安神経症のS先輩に、不安発作に見舞われた時の事を聞かれ答えているうちに、動悸が激しくなってきました。すぐに頭が真っ白になり、強烈な不安発作が起りました。逃げ出そうとする私に、M先輩が「待った」をかけます。逃げ道を塞いでくれたのです。ひたすら、苦しさをこらえるしかありませんでした。この事をきっかけに、発作に対する予期不安が短時間で薄れるようになっていきました。「不安感は放っておけばやがて消滅する」という事が身をもって解ったのです。それから、乗り物に対する恐怖感も薄れていきました。不安感が起きても、特別視する事が減ってきたのです。いつしか頭痛薬や胃腸薬も手放せるようになり、眠れないほどの頭痛もおきなくなりました。「これなら薬をやめられるかもしれない」。やがてみんなの励ましと協力を経て、断薬する事が出来ました。その間、様々な不快感に悩まされ、何度薬を再開しようと思った事でしょうか。しかし、そこで留まらせてくれたのがM先輩や会の仲間達です。
 断薬と平行して教えてもらったのが自転車で、基礎体力向上の大切さを知りました。まずは自転車で会社通勤をするようになりました。日頃は電車通勤ですから、いざはじめようと思ってもどこをどう走ってよいやら分からないのです。地図を見て走っているうちに、普段から頭でばかり考えている自分に気付きました。とにかく行動してみなければわからないということも、自転車は教えてくれました。日焼けで元気になっていく私を見て、母はとても喜んでくれました。振り返れば、母が父の死で苦しむ中、私は労わる事もできなかったのです。自分も辛いのに、神経症で苦しむ私を見て、母は数倍も苦しかった事でしょう。
 
とにかく「恐くてもまず行動してみよう」と、症状の事でひっかかっていた結婚問題をM先輩に相談。さっそく仲を取り持っていただき、同じ会員の主人とお付き合いを始め、結婚を決めました。しかし、何も分からぬ未知の世界、結婚という環境の変化に強い不安を抱き、何度も迷いました。やはりここでも、不安があってはならないと考えていたのです。しかし既婚の先輩達のアドバイスで、頭で考えすぎると本来の問題、欲求を見失ってしまうということに気付きました。恐いことではありましたが、主人がしっかり私を受けとめてくれ壁を次々に乗り越えることが出来ました。それから短期間で結婚式、出産と、慌しく充実した日々が矢のように過ぎました。その間に何度も危機はやって来ました。身重の中での不安な結婚、流産の危機など。そして産後一ヶ月近い日、子供の泣き声を聞いただけで何処かへ行ってしまいたい気分になりました。様々な不安が恐怖感にかわっていきます。しだいに自分が何を恐がっているのかもわからなくなってきました。「出来ることをやっていこう」という主人の言葉「子育てから逃げちゃだめ」という実家の母の言葉で、症状から逃げようとばかりしていた時の事を思い出しました。感情から逃げよう、なんとかしなければならないとするから神経症になったのです。症状にとらわれて、家族を苦しめた日々を繰り返したくはありません。自分が親となったことで、父母への感謝の気持ちも強くなりました。
 今では死の恐怖にかられても、何とか行動出来るようになりました。症状で動きが止まっている時間が勿体無いと感じます。思い悩むのが人間、仕方ないと思えるようになってきました。森田を学ぶ前は、「平凡な人生なんてイヤだ、大きな事をしたい」などと現実離れしたことばかり思っていました。だけど、日常の平凡な生活の中にこそ、幸せがあることに気付きました。これからも、家族や仲間とのかかわりを大切に、一日一日を過ごしていきたい。子供が小さいのでなかなか出来ませんが、懇談会以外での集まりにも参加していきたいです。やはり、先輩や仲間と行動していく事が大切だと思います。皆に助けられたように、自分も微力ながら後輩の力になれたらと思います。「事実を歪めず、直視」それが今の私の課題の一つです。

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■  yamaちゃん    つらいことが楽しいことに(異常感覚、不安、抑うつ)

 今楽しいこと、それは次女(三か月)と毎日お風呂に入ることです。長女(五才)も一緒に入ります。マットにタオルを敷き、その上に次女を寝かせて体を洗います。その間長女は自分で体を洗います。それからぬるま湯の張ってある湯船に三人で漬かり、次女をお気に入りのポーズにしてやります。
 お気に入りのポーズとは、頭の後ろだけを持って仰向けにプカプカ浮かしてやることです。このプカプカが余程気に入ったらしく、気持ちよさそうに「ウー、ウー」と話し掛けてきます。母親の子宮内を思い出しているのかも知れません。子宮という小宇宙に漂う安らぎが伝わってくるようです。
 とらわれの中にあった頃、カゼの症状とか腰痛、あるいは抑うつの中で長女を毎日お風呂に入れることはとても辛いことでした。ただでさえ治りにくいカゼがますます治らず、腰痛を押して子供を抱き、抑うつの体に鞭打ってお風呂に入りました。それが今では楽しいことの一つになりました。本当に嘘のような気がします。カゼの症状や腰痛があってもさ程気にならなくなりました。
 私にとってカゼの症状や腰痛は心身症の一つであり、実生活からの逃避願望の現れであったように思います。抑うつについては実生活から逃避したい気持ちが神経質症として発展していったものと考えています。

「神経質性格」
 子供の頃よりカゼを引きやすく、一度カゼに掛かると中々治らず一年の半分以上をカゼ薬のお世話になっていました。また中学生の頃より食べ物に対してアレルキー性じんましんが出るようになり、自分の家で調理したものしか食べられなかった時期もありました。 これらについて自分は過敏性体質なのだから仕方がないものと思っていましたが、単に体質に基因していただけでなく、神経質性格や環境が自分の身体を過度に気遣う傾向を育み、後に異常感覚を不治の病と恐れ、あるいは不安や抑うつをうつ病として死の恐怖に結び付けていったようです。
 森田先生は過敏性体質それ自体に対しては鍛練の必要性を上げておられますが、去年よりスイミングを始めてカゼの症状や腰痛に対して抵抗力が付き、症状はあっても苦にならないようになってきました。小学生の頃より色々とスポーツをしてきましたが、高校二年の時スポーツクラブを止めたことが抵抗力を弱め、より症状にストレスを感じるようになっていったように思います。

「逃避」
 高校生になった頃より注意が自分の心に向いていくようになりました。同時に自分の神経質な性格を嫌い、大胆な人間に憧れ、小心で精神的に弱い自分の性格を否定し、観念的に感情をやり繰りして性格を変えようとしました。その結果として無気力、無関心、無感動といった状態に陥っていったようです。
 また学校で与えられる本には殆ど関心を示さなくなり、むしろ学業とは結び付かないような本ばかり読むようになっていきました。それが孤立感を生み観念的傾向を強めていったように思われます。
 更に大学受験と重なり、机の前に座ると髭が気になり勉強に手が付かないという状態とか、テストの最中に必ず中耳炎が再発するといった状態にも陥っていきました。これらについては自分でも逃避的な側面を持っているらしいということは薄々気付いてはいましたが、気付いてはいてもどうすることも出来ませんでした。
 この時期のテスト不安とも言える症状は、受験が終わると同時に消失していきましたが、その他、中学生の頃より神経質症とまではいかないまでも、種々のそれに近い症状が見え隠れしていたようです。

「自己否定」
 子供の頃より家族間の人間関係に敏感な傾向があり、それが神経質性格特徴のマイナス評価に傾き自己否定につながっていったようです。太宰治、旧約聖書、フロイドなどに救いを求め、あるいは何かを得ようと右往左往しているような青春でもありました。
 東京で大学生活を過ごした後、帰郷し家業の旅館業に従事するようになりました。小さなビジネス旅館ですから接客から掃除まで何でも自分で出来ることはしましたが、大きなホテルなら別でしょうが、男のする仕事として評価してくれる人は誰もありませんでした。仕事に対して評価出来ないことが自分に対してもマイナスの評価になりました。
 二年も経つと仕事にも慣れ時間の使い方も分かってきて、ある資格試験を受験しました。五科目中二科目に合格しましたが、あと三科目がその後五年連続不合格という結果として残りました。この挫折の連続もまたマイナスの自己評価につながっていきました。
 またこの頃より、祖父が病気を切っ掛けに痴呆性老人の特徴を示すようになっていきました。丸七年間、私を始め家族が、あるがままの気持ちで祖父の症状に対応できていたなら、本人にとっても家族にとっても少しは楽ではなかったかと思います。祖父の症状が私に与えた影響は大きかったと思います。

「異常感覚」
 二十六歳の時、妻との結納を数日後に控えて突然両足に異常感覚を覚えるようになりました。この異常感覚とは、モジャモジャした感じが両足の皮膚一面を覆い何とも気持ちの悪い感覚です。丁度その一か月前に腰を痛めていたこともあって、整形外科から病院巡りが始まりましたが、原因も分からぬまま異常感覚は益々強くなり、足ばかりでなく両手から後頭部にまで広がっていきました。
 血行障害を疑い、このまま足が腐っていってしまうのではとジョギングを試みたこともありました。また余りの不快な感覚に両足を切ってしまいたいと思ったことも度々で、アルコールで異常感覚をごまかそうとしたこともありましたが、酔い覚めの頃になると前にも増して異常感覚が強く感じられ眠っていることも出来ず、アルコールを飲まないようにもなりました。
 回り回って針灸院で針治療を受け、週二回、三か月ほど通院し、腰がよくなり仕事上腰に掛かる負担が小さくなったようで、ほとんど異常感覚を感じなくなるまでになりましたが、翌年、結婚を境に腰痛とこれに伴い異常感覚がまた現れるようになりました。針治療も一進一退といった状態で、現実を見なければならない目が症状に向いていきました。結婚による適応不安がありました。
 腰痛とこれに伴う異常感覚は、次第にカゼの症状と平行して生じるようにもなりました。更に微熱感が伴い、断続的だった異常感覚は継続的になり益々これにとらわれていきました。その後精神的ストレスとも関係するようになり、実生活上の諸問題がストレートに異常感覚に反映し、加えて吐き気が伴うようにもなり現実から逃避したい気持ちが大きくなっていったようです。
 異常感覚に対するまとめとして、逃避的な幼弱性と、異常感覚をあってはならないものと敵視し取り除こうとした姿勢の相乗効果により発展したもので、それまでカゼの症状といった心身症に逃げ場を求めていたものが、神経質症として現れたものだと思います。

「不安、抑うつ」
 三十一歳の時、異常感覚が精神的な問題と関係があるのではと考え精神科を受診しました。異常感覚を抑えるという薬を服用しましたが、特に自覚できるほどの効果もありませんでした。
 その後、心身共に奇妙な無気力感に支配されるようになり、また通常抱くような不安感とはどこか次元の異なった全く訳の分からない不安感が顔を出すようにもなっていきました。更に、朝早く目が覚めるようになり、睡眠時間が三時間程になると早朝覚醒と同時に底知れない不安感に襲われるようになり、居ても立っても居られず、かと言って騒ぎ立てることも出来ず、布団の中で丸くなっている以外どうすることも出来ませんでした。
 一時間程すると、ようやく底知れない不安感からは解放されるのですが、毎日がこのことの繰り返しで、寝るとまた目覚めたとき底知れない不安感に襲われるという恐怖から、不眠恐怖ならず睡眠恐怖に陥っていきました。睡眠時間が二時間程になると早朝覚醒に心悸亢進が伴うようにもなり、安定剤を服用するようになりました。
 底知れない不安感からは解放されましたが、徐々に不安から抑うつへ、睡眠恐怖から不眠恐怖に移っていきました。また頭の中が完全に異常に感じ、このまま発狂してしまうのではないかと毎日を戦々恐々と送っていました。仕事は続けていましたが、仕事上のお客さんに対する対人恐怖や仕事上の電話に対する電話恐怖といった症状も現れ、また食事も砂を咬んでいるようなもので食欲もなく体重も十キロ以上も減っていました。
 特に一時期、抑うつに拍車が掛かり、生きていることの恐怖と死ぬことの恐怖の間をさまよったこともありました。このとき初めて死の恐怖を垣間見たように思います。このことが恐怖感動となり、自殺念慮に対する恐怖が予期不安として根付き、その後、通常誰にでもあるような不眠感や不安感、あるいは抑うつ感に対して恐怖するようになっていったように思います。
 仕事や家庭の中にいるのが辛く神経内科の病院に入院することになりました。病院のベッドに横になってしまうと、それまでの様々な恐怖が不思議と無くなっていきました。その晩の病院の食事が美味しかったことを覚えています。入院して三日間はうとうと状態でしたが、四日目より退屈感を覚えるようになり、一週間目で退院を希望するまでに精神状態が回復していました。
 一か月の入院の後実生活に復帰しましたが、その後精神的ストレスから早朝覚醒や不安、抑うつといった症状が再び現れるようになり、抗うつ剤の服用を繰り返すようになっていきました。また、カゼが引金となって抑うつ状態に陥るといったこともあり、一体この先どうなってしまうのかと不安な日々を送っていきました。
 この間の症状に対するまとめとして、とらわれが異常感覚から不安や抑うつに移っていったように思います。これが本来の病気ではなく主観であったことは、私自身どれほど恐怖しようと回りの誰一人として病気であるという認識を持っていなかった点にあると思います。客観的に見て私は健康人として生活していたようです。

「共感」
 去年の四月、読売新聞の紙上で引き付けられた一つの記事がありました。これが生活の発見会との出会いでした。大阪天満橋集談会のS氏の紹介と森田先生のノイローゼに対する考え方が掲載されていました。
 「人間ならば誰でも不安を持っている。その不安を取り除きたいという意欲が高まる程かえって強まってくる。ノイローゼになる人は、よりよく生きたいという欲望が人一倍強いため、いっそうとらわれる。だから不安になることを否定せず、あるがままに受け入れ目的を持って行動すれば、不安は薄らぎ悩みを解決できる。」
 まるで自分のことを言われているようでした。S氏の心の葛藤が自分とは症状こそ違え本質は同じように思えました。更に森田先生のノイローゼに対する考え方がそれを裏付けてくれました。
 発見会に入会して集談会の方々に対する共感や、本を読んで「森田」の考え方に対する共感が益々高まっていきました。「森田」に対する適否について、抑うつという症状の性格上迷ったこともありましたが、共感できたということと、集談会の方々の暖かい助力のお陰で「森田」に食い下がってこれたと思います。
 「森田」の正しさは、とらわれから解放されて初めて分かったような気がします。とらわれの中にあってはただ試行錯誤の連続であり、神経質症で苦しまれた方々に対する共感や、「森田」の考え方に対する共感だけが支えだったようです。

「あるがまま」
 その後「森田」を理解しようと努めましたが大きな壁が待ち受けていました。それは「森田」が症状と実生活上の諸問題との関係を取り上げようとしないことでした。自分の中に自己中心的幼弱性ということが受け入れられませんでした。益々「森田」が分からなくなりました。「あるがまま」という単純な言葉が魔法の呪文のようにも思えました。
 六月の集談会で初めてS理事にお会いした際、仕事上のお客さんに対する予期不安に対して、「対応さえ出来れば、それでよい」というご助言を頂きました。当時の私にはこれが「あるがまま」であるということが分かりませんでしたが、それ以来、実生活上の様々な予期不安に対して自問自答するようになりました。
 また、何故「森田」は精神分析のように原因を究明しようとしないのかということに対して、「原因が分かっても森田では何にもならない。前向きに行動するだけが必要」という答えを頂きました。その夜、「森田」とはとんでもないシビアーな理論ではないかと思い始め、空恐ろしい気持ちになりました。甘えを許さない、逆に言えばいかに自分が自分に甘えていたかを考えさせられました。
 最近では、実生活に対して「あるがまま」が役に立っています。私の場合、症状と実生活とは切っても切り離せない関係にあり、実生活に対してあるがままであることが症状に深入りしないことに通じるようです。
 特に、逃げたい気持ちと逃げたくない気持ちの葛藤に対して、「森田」はどうすればよいかを教えてくれたわけですが、なすべきことをなすことの難しさが、ひしひしと感じられます。まだまだ実生活では、受動的あるがままであったり能動的あるがままであったりといったところですが、それなりに成長したと自己評価しています。

「日記指導」
 入会して後、集談会のKさんに色々とお世話になりました。また六月より日記指導をして頂けるようになりました。本を読んで「森田」は厳しいという気持ちはありましたが、日記指導はそれ以上に応えました。
 生きていく価値は日常の雑多な生活の中にあること。症状も含め気分の快、不快と言ったものも自分自身であること。家族に何かを求めるのではなく、何をしてやれたかが大切であること。その他、特に家族関係の問題について教えて頂いたことが多くありました。日々の生活を日記を通して助言して頂いたことが大変参考になったようです。日記指導なくして現在の自分はなかったと思います。
 発見会に入会した当時は「森田」は厳しいと思いましたが、最近では「森田」の考え方が当たり前のようになってきました。自己中心的幼弱性に気付き、これを認め、実践を通して克服していくことの大切さを教えて頂いたと思います。

「スイミング」
 中学生のとき不注意から過って片方の鼓膜を破損し、その後プールに入って中耳炎になり、それが慢性化して手術をしました。それ以来泳ぐことがなかったわけですが、その年の夏子供とプールに行った際、思い切って水の中に潜ってみました。
 もう泳げないものとばかり思っていましたが、何とか二十五メートル泳ぐことができ、この時から何かふっきれたような気持ちになり、以前からスイミングをしてみたいと思っていたこともあって、スイミングスクールのフリーコースに入会し毎日通うようになりました。また日曜日には長女と一緒に行くようにもなりました。
 この九月でスイミングを始めて丸一年になります。カゼの症状は相変わらずですが、それでも一泳ぎするとすっきりするようです。次女が生まれてからは育児に時間を取られて毎日は行けなくなりましたが、この夏は長女と週二、三回通っています。子供に対して百の説得より一つの体得を大切に、楽しく一緒に体得できるものを持つことに心掛けていきたいと思います。
 今年は盆過ぎになってようやく長女を海に連れて行ってやることが出来ました。去年までの海水浴嫌いの私ではなく、長女と一緒に思い存分波と戯れました。むしろ私の方が楽しんでいたのかも知れません。来年は次女も連れて家族四人で海水浴を満喫できたらと思います。

「恐怖突入」
 去年の十月に症状に陥った際、恐怖突入しました。早朝覚醒で目が覚めてもそれ以上眠りを求めず、不安の中で「森田」のテープばかり聞いていました。それから起床して床に付くまでの間ひたすら実践しました。じっとしていたりテレビを見ていても不安に襲われるので、症状を取ろうとして掃除などに手を出したことも度々でしたが、この際、はからいであろうと、ごまかしであろうと、行動が目的にかなっていればよいと自分に言い聞かせ、目的本位、家族本位の行動に心掛けました。
 一週間程で早朝覚醒に伴う不安感が少しづつ薄らぎ始めてくるのが分かりました。森田先生の「休息は仕事の転換にあり」という言葉に従い実践を続けました。二週間も経つと不安感はほとんど消失しましたが、抑うつが引き続き尾を引いていきました。一か月を過ぎる頃には、早朝覚醒もあったりなかったりするようになり少々気も緩んできて、また実践のやり過ぎから疲れも出て何もする気にならなくなってしまいましたが、これではいけないと思い少しづつ実践を続けました。
 実践課題として、妊娠中の妻に対して少しでも自分で出来ることに心掛けていきました。自己中心的幼弱性から、夫婦関係をはじめ家族関係に対してノイローゼ状態になっていった頃を省み、妻に対して今出来ることを実践していきました。これは自分の幼弱性との戦いでもありました。次第に抑うつは消失していきました。

「実践」
 それまで実践ということがよく分かりませんでしたが、行動の目的をはっきりさせ、当たり前というのではなく、行動したことにプラスの評価をしていくことが大切なように思います。これまでも仕事や家庭あるいは地域社会に参加し、それなりにやることはしてきたつもりでしたが、常に劣等感的差別観に支配されていたようで、自分の存在に脅えることさえありました。これが益々自分を逃避的にさせていったようです。
 少しでも出来たことを評価することは、完全主義的傾向の強い性格にとっては難しいことですが、自分の行動が回りの人たちに少しでも貢献できたことを評価してみると、行動したことが楽しく感じられるようです。日々の生活を通してこれを繰り返していくことで次第に身についてきたように思います。
 やりたい時にやり、やりたくない時はしないという気分本位な面もありました。調子が上がってもっとしたくても、後先のことを考え時間切れを宣言し、気分が乗らなくて何もしたくなくても、する必要のあることは少しづつでも手を付け、行動のムラを小さくしていくことが気分の波を小さくしていくようです。やり過ぎに注意し行動の転換に努めるようになりました。
 私の家の仕事は旅館業のため変則的な生活を強いられることもあって、特に行動の転換が大事になります。また客商売ですから自分のペースで回ることも出来ないのでストレスが溜りやすいようですが、小さなことでもお客様本位の行動に心掛けていくことで、仕事に対してもプラスの評価が出来るようになってきたように思います。

「体験発表」
 今年の五月に金沢で開催された北陸ブロック基準型学習会において体験発表させて頂きました。まだ入会して一年になったばかりでしたが、この体験発表は私にとって大いにプラスになりました。去年の十月に恐怖突入を試みてはいましたが、症状について整理されていたわけではなく、体験発表がその機会を与えてくれることになりました。
 三十四年の歳月をたどり、あるいはとらわれの中にあった頃を振り返りながら一つ一つ書き出していきました。異常感覚、不安、そして抑うつ、それぞれの時のことを体が覚えているせいか次第に抑うつ状態に陥っていきました。このまま逆行していってしまうのではといった不安が幾度となく押し寄せてきましたが、それでも何度も書き直していくうちに頭の中が整理され、それと平行して抑うつも薄れていきました。症状はあるがままに体験発表をまとめ上げることが目的本位の行動でもありました。
 症状は抑うつから大腸過敏に移り体重が減少しましたが、後半より食欲も回復し大腸過敏もあるがままに当日体験発表に臨みました。諸先生方の暖かい言葉に心が洗われるようでした。また体験発表を通して、総括を繰り返していくことの大切さを身に染みて感じました。翌日の朝食でご飯を三杯もお代わりしました。体重が減った分いくらでも食べれそうな気がしました。

「キャンプ」
 今年の七月に地区の育成会の世話係として小学生を連れてキャンプに行きました。去年入会したばかりで育成会のキャンプは初めての体験だったこともあり、前日よりカゼの症状が逃げたい気持ちを誘い、当日は早朝から大腸過敏で行きたくない気持ちが益々強く出てきましたが、出掛けてしまえば何とかなると思い出発しました。
 あいにくキャンプ場は悪天候で周期的に大粒の雨が降り注いできました。カゼの症状が気になりましたが、子供達の世話をしながら出来たことを評価していくと、逃げたい気持ちも小さくなっていき次第にキャンプに興じるようになりました。雨に臆することもなく岩魚を追い掛け回している子供達の姿を見て、来年は小学生になる長女と一緒に来たいと思いました。
 夕食はカレーライスでした。火を起こすことから始まって、食器を洗う者、ジャガイモの皮をむく者と、全員がそれぞれに自分の仕事は自分で捜して行動している光景を見て、「森田」の言う実践が培われているように思えました。
 翌朝は昨日の天気が嘘のように晴れ上がり、小鳥達のさえずりが心を和ましてくれました。朝食後シートに仰向き青空の下、間近に流れる雲を眺めながら、とらわれの中にあった日々のことが懐かしく思い出されました。カゼの症状や大腸過敏といった心身症にも「森田」的に対処できるような気持ちが湧き上がってきました。

「総括」
 神経質性格に対してマイナスの評価に偏っていたという人間性に対する認識の誤りが、そもそもの始まりだったような気がします。これについて神経質性格にはプラスの面もあり、物の見方や考え方は行動により変化すること、神経質性格のプラス面を評価し、実践を通して発展させていくことの大切さを教えて頂いたと思います。
 また実生活に対して、かくあるべしでなければならないという自己中心的な一面や、部分的弱点を絶対視するといった幼弱性が、結果的には自らを縛り付けてしまっていたようです。「森田」の言う事実唯真ということを受け入れられるまでには程遠いと思いますが、日常生活において事実を事実として受け入れ、少しづつでもなすべきことが出来れば評価していきたいと思います。
 これまで自分に対してあるいは実生活に対しての評価は、当たり前か、そうでなければマイナスの評価だったと言えます。「森田」はプラスの評価のあることを教えてくれました。最近では、マイナスの評価もありますがプラスの評価も少しづつ出来るようになってきました。今後、プラスの評価か、そうでなければ当たり前といった評価の出来る人間になれたらと思います。このプラスの評価が感謝の気持ちにもつながっていくような気がします。
 不安とか抑うつといった症状に対するとらわれから解放されたせいか、異常感覚がまた強く感じられるようになりましたが、今はこれにとらわれることもなく過ごしています。妻に対して感謝できた日が、異常感覚を敵視せず受け入れられるようになった日でもあったようです。

 最後に森田先生並びに発見会を育ててこられた諸先生方、あるいは集談会を築き上げてこられたS理事補佐はじめ幹事の方々に敬意を表すると共に、発見会の皆様にお礼申し上げます。
 また入会の当日、声を掛けてくださったTさん有難うございました。特に日記指導をして頂いたKさんにはどうお礼申し上げてよいのか分かりませんが、この気持ちをとらわれの中におられる方々に少しでもお返しできればと思います。
 体験発表を終えるに当たり、森田先生の神経質の本態と療法という本より一言引用させて頂き、まとめとさせて頂きます。
「病気を治すのは、その人の人生をまっとうするためである。生活を離れて、病気は何の意味をもなさない。……人生ということを忘れて、ただ病気ということだけに執着する。……つまり人を忘れて、病的変化ということのみ執着しているのである。」

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■ mayu   心身共に変えた森田の教え(対人恐怖・パニック発作)
私は、昭和五十二年、九州に生まれました。高校卒業までの十八年間、豊かな緑に囲まれた、バスも通らない、お店もないような田舎で育ちました。私はその地が大好きでした。両親、妹、弟、祖母の六人家族。父は職人気質でそんなに社交的ではありませんが、母は皆に頼られるような明るい性格の人でした。私はそんな父と母の性格を合わせ持っていたように思います。人見知りが激しい反面、打ちとけた友達とはいつも自分が先導して遊んでいました。また感情に左右されやすく些細なことで泣いていた為、いつも気の強い妹と比べられました。人前では、その過敏な感情を抑えて振る舞うことを覚えていきました。

 小学校低学年の時でした。或るきっかけから、あの子はおとなしいから喋らない、というレッテルがつきまとうようになりました。気の弱い自分はそれに逆らわずに皆の思惑のままに、学校で口をきかない子になっていきました。性格は決して暗い方ではなかったのですが、学校では授業中しか声を出しませんでした。何とか自分を変えなければと思うのですが、中学になり、高校になっても周りは顔見知りの人ばかり。あの子は喋らないのよ、という噂が先に広まってしまい、自分からこの状況を抜け出すことはとうとうできませんでした。それでも小学生時分は、家に帰れば仲の良い近所の友達と集まって、思う存分好きなことをして遊んでいました。野山を冒険してまわったり、ホームパーティーをしたり、演劇を作って一生懸命練習したり・・その頃の楽しかった思い出が、いくつになっても忘れられず、その記憶を糧に、それを目標に生きてきたと思います。

 小学生時分は活動的な面もありましたが、中学にあがり、部活優先の為にと習い事もやめ、友達と会う機会も少なくなると、自分を社会と繋いでいた物がなくなってしまいました。どんどん行動を萎縮するようになっていき、友達とも喋らなくなりました。学校でもどんどん自分の殻に閉じこもっていきました。喋らない自分は動く権利がないと、体育や家庭の授業など手足を動かす事はやってはいけない事だと思い込みました。お昼を食べる為に学校へ行くのかと、誘われても一人で食べ、やがてそれも恥ずかしく、食べなくなりました。一日中机に座りただ心の軌跡を綴るのでした、忍耐が要りました。なぜ人と同じ行動をとらないのか、何で?何で?といつも周りを困らせました。私は自分の意見も言わなかった為に、先生や両親を相当心配させました。ですが、身内の前では、以前のように明るい自分のままで接していましたので、そのギャップに苦しみました。

 高校生になると、授業中に当てられても答えず、トイレにも一切いかない、バスには乗らず通学路(8キロ)を徒歩で帰ったりなどしていました。中学時代、男子生徒に行動一つ一つを監視された経験から益々自意識過剰がひどくなっていきました。授業中、教科書を出すのもノートをとるという行為も恥ずかしく、自分の行動一つ一つを自分でどんどん規制するようになっていきました。学校へは休まず通いましたが、あとは家に引きこもっていました。勉強もせず授業もきかず、成績は下がる一方でした。
それまでは全くの健康体でしたが、ある時を境に頻尿恐怖が始まりました。
 修学旅行での全体集合の時に、皆の前でトイレに駆け込んでしまったのです。座り込んで「具合悪いから」と嘘をついてトイレに走りました。そのころのことはあまりに衝撃的で、よく覚えていません。ただ、人前で初めて自分のコントロールを失い態度を崩したことが、身体に対する自信を失ってしまったのだと思います。それからは毎日が戦いでした。尿意が頭によぎるだけで直ぐさまトイレに行かないと気が狂うような心身の状態に襲われました。症状の始まった当初はひどく、五分や十分毎にその感覚に襲われては、もう授業など出ていられませんでした。病院で検査しても異常なしですから、誰にも相談できません。「これは気のせいだ。精神力で以前の様に戻れる」と感情を抑えつける無駄な努力が始まりました。ただ放っておけば治るものを、その当時は異常感に執着してしまいました。

 やがて、私は中部地方に就職進学が決まりました。これまでの思考回路から一変、これからは人生をやり直そう、明るく生きようと前向きになりました。持ち物も、一人机で綴った日記もすべて処分して、段ボール2箱のみになり、地元を後にしました。しかし、いざ会社へ赴任すると、初めての寮生活、仕事など何もかもが思い描いていたものとは違い、観念の世界で生きてきた自分にとって衝撃的でした。同室の人、先輩、同僚、思う通りに接することが出来ません。仕事はIC基盤製造の工場で、ドリルの機械を動かす男勝りなものでハードでした。同期の子たちは先輩と仕事中あんなにも楽しそうに会話しているのに自分は楽しくないです、と行き詰まって先輩に相談したことがあります。「台付きは誰でも楽しくないよ!」とその日から機械を外され、補助の仕事に廻りました。今思えば、仕事は自分には楽しく出来るはずという世間知らずの思い上がりがありました。そんな常識のなさから自らも苦しみ、周りを見る余裕はありませんでした。どれだけ周囲を振り回して来たことでしょうか。唯一、悩みを話せる友人ができた事だけがただ一つの心のより所でした。しかしある晩、大人しい友人が酒に酔い抱きかかえられて帰宅した事に嫌悪感を覚え、口をきかなくなってしまいました。それからは誰とも会話しない為に、声が出せなくなっていきました。声帯の検査をしても異常なし。私は言葉より、話の内容よりも、発声困難さえ無ければという思いのみでした。発声にとらわれるあまり益々声が出なくなっていきました。皆の様にはっきりした声が出せれば何でも出来ると、長いことそう思っていました。
こんなきつい仕事は続けていく自信がないと、学校は一年で辞め、その会社も二年足らずで退職。今度こそ人生一からやり直そうと意気込み、今度は妹のいる大阪へ引っ越し、ひとり暮らしを始めました。

大阪。見知らぬこの地で新しい職種を求める根性はなく、仕事も結局は、工場の短期バイトなどを転々として生活していました。仕事のきれた期間は過食がとまらず、急激に太ったり痩せたりを以前からくり返していました。きちんと仕事をして、きちんと生活をしたい。その気持ちが裏目に出ていたように思います。
 職場ではいつも、初めは明るく振る舞っているのですが、やがて精神的にエネルギーが尽きて、今度はまったく無口になるのでした。発声困難に悩んでいたのも大きな理由でした。仕事は真面目にしていたと思います。そんななか二十歳の夏に、帰省の帰りの飛行機で、パニック発作を起こしました。飛行機の離陸する際に感じる背中と胸の異常な圧迫感、閉所恐怖や頻尿恐怖も相成って、動悸が激しくなり、頭の中はただ一秒ごと生きるか死ぬかと戦っていました。それと飛行機は空を飛んでいるから、自分の足が常に地に着いていないということも恐ろしく感じ、ジェットコースターに乗っているかのような緊張が続きました。その時は、心臓が弱いんだなと解釈していました。しかしそれ以降も、普段突然そのような状態に陥るようなことがあり、やがてTVでパニック障害という言葉を知りました。森田療法もそのころ、本で知りました。自分そのままでいい、というところに惹かれました。もう死んでも良いや、と本気で思うと発作が消えていく。数年間そのやり方でやり過ごしていました。その頃の私なりの「あるがまま」でした。
 そして一昨年の九月、今までにはない発作を起こし、生活の発見会の扉を叩きました。

 そのころ、職場や自宅の環境の悪化から、気管支炎にかかり咳が止まらず、数日間不眠が続いていました。ある晩突然、頭の線が切れたように息がまったく出来なくなり、パニックになって、救急車に助けを求めました。対人恐怖など、経験のなさなど何処かへ吹き飛んでいました。救急隊員に対して吃る、吃らないなど問題ではなくなっていました。呼吸困難の苦しさに加え、体を動かそうにも卒倒感が強すぎて体がガタガタ痙攣し、手足は冷たく痺れ、意識が遠ざかります。過呼吸だと診断されましたが、自力で起きあがれないから検査が出来ません。先生から「この子本当に大丈夫なのか?」と言う声が聞こえ、不安は募り、頭のパニックの加速を抑えるのに必死でした。その夜は病院にお願いして入院させてもらった程でした。私は、これは精神的な病気ではなく、何かとても重い身体の病気になったのだと思い込みました。
 その後、症状を持ちこたえ仕事に行きましたが、倒れてしまい、上司にこの苦しさや抱えてきた悩みを、泣きながらずっと話していました。それは、人に心を打ち明けた初めての体験でした。しかし数日後、今度はついに本当に体が動かせなくなり、ひどいめまいで腰が抜け、息苦しく、気が変になりそうで堪えられず、また救急車を呼ぶはめになりました。症状はその後も悪化し続け、身体の起きあがらない時間が日に日に長くなっていきました。横になっても発作との戦い、救急車を呼んでたまるかと必死でした。病院で強い薬を処方されてからは、症状から少しずつ解放され、やっと日常生活が維持できるようになりました。そして縋るように、発見会の初心者懇談会へ参加しました。かつて、神経症で悩んできた方、悩まれている方たちは、とても親切でなじみ易くて、不思議と私もすんなり心を開くことが出来ました。

 森田理論を勉強するため書籍を借りに、メンタルヘルス図書室(大阪市中央区)へ通うようになりました。そこで働くmandyさんご自身から神経症克服の体験話をお聞きし森田についていろんなことを教わりました。『心の問題だからといって頭だけで解決しようとしてもダメですよ。弱い心を支える強い身体をつくっていきなさいね。』とアドバイスをいただきました。
ある時、ご一緒に歩く機会に恵まれました。これまで家と会社の往路を地下鉄で移動することしか知らなかった私は、その距離を歩いて帰れるものかと不思議でした。大阪市内のビル街を過ぎると間もなく大川といって桜並木で有名な自然道にでます。自宅まで距離にして7キロくらいでしょうか、方向音痴で不安神経症の私が歩いて帰れたことにとても感動しました。それからアドバイスを受け入れて毎日通勤で歩いて帰るようになりました。
Mandyさんも若い頃、毎日歩いて弱った身体を作り直されたそうです。私は仕事が肉体労働だったこともあり、疲れた体をこれ以上酷使するとますます具合が悪くなるのではとビクビクハラハラでした。しかし、実際やってみると、街並みや自然の中に色んな発見があり、気持ちがほぐれていきます。これまで四季の変化も仲間と楽しむことも知らず、自分の内部の葛藤と戯れてばかりでした。神経症に陥るのも当然でした。やがて体力もつき、休日も一日中動き回れる身体になりました。有酸素運動で心肺機能が高まり肺活量も上がり過呼吸も起こらなくなりました。
やがて先輩が活動するロードレースの同好会《ミーハークラブ(メンタルヘルスクラブ)》に参加するようになって、病人だった私が運動量の激しいロードレースに挑戦するようになっていったのです。朝夕の通勤はロードレースに乗って足を鍛えます。大阪から京都嵐山まで百キロ近い道程を走破出来るまでになりました。京都の美山という深い山の中で先輩達と一緒に走った感動は一生忘れることは出来ないでしょう。

 このように発見会の先輩は、本当に親身になっていつでも相談に応じてくれ、色んな行事や遊びにも連れ出してくれました。人生経験や人付き合いの乏しい自分にとっては、初めての事ばかりでした。心の狭い自分は今まで、何でも一人で出来なければこれから先、生きていけないと思っていました。神経症を克服した人たちとの出会いから、自力ではなく他力も信じられるようになりました。自分の力で何でもやろうとするのは強情だったのです。
人の縁が増えていく中で、神経症が小さくなっていきます。環境に恵まれ、対人恐怖など全く感じなくなり「このままでいい。このままがいい」そう思えるようになっていきました。これまで対人恐怖にどれだけ悩んできたことか。しかしこれからの将来を考えると、安定剤を一日三回飲んで身体もだるい……これではいけません。会の人たちの助けを借り、半年間服用していた薬を断って自分と向き合おうと心に決めました。それはもう背水の陣で臨みました。薬を止めた当初は、やはり辛くて辛くて、身も心も病気としか思えません。自分が今何をしているのか分からないが、取り乱したら一生が終わるぞと一日必死の時もありました。私は森田療法を信じ、襲ってくる異常感のままに、仕事に精を出しました。事実は、仕事がちゃんと出来ていたのです。薬の服用を中止して一週間くらいが最も辛かったです。しかし今となれば、あの苦しみは一体何だったのかと不思議な、夢の様な気分です。森田先生が言われる様に、神経症はやはり病気ではありません。これまでの、人間性に対する誤った対処が症状として現れていたのだと実感出来ました。自分が認められず、いつも悲観ばかりしていたのです。薬の服用を止められたことは、森田療法の教えとそして先輩の言われた身体作りのお陰でした。

未熟な私には、まだまだ森田療法をきちんと理解するのは難しい。でも神経症を克服された先輩達に背中を押されて良くなったのは紛れもない事実です。感情表現のへたくそな私が喜怒哀楽を自由におこなえるようになった。未来に光が見えた。

 田舎の母は母で、これまで仕事で忙しくてあまり子供の意見を尊重してやれなかったと後悔していました。なぜこの子は友達も作らなくなったのか。無表情で、意思も言わずただ素直なように振る舞うだけ。自分の信じるもの以外誰の意見も聞き入れなかった娘が、森田に関わるようになって、遅まきながら普通の道に近づいているような気がする。コミュニケーションがうまく出来ないのは、今まで他の人のように色んな経験をしてきていないから、仕方のないこと。一番大事なことは、何でも相談出来る友達がいることだと思う。そう言っています。
 私は発見会に関わる様になって、生活が目まぐるしく忙しく一つ一つにかまっていられない為、家族にきつく当たることが多くなっていた。しかしそれは思い込みで、喜怒哀楽を素直にぶつけてくることをむしろ喜んでくれていた。ハッキリ意志を言うようになっていきました。
 発見会の方々との毎日のメールのやりとりや、自転車による基礎体力と気力の向上、それを教えて下さったmandyさん、金曜夜間懇談会の皆さん、それによって私は支えられているのだと思います。これからも発見会の仲間の皆様と、よりよい生き方をしていきたい。過去は問わずに前向きに生活して生きていきたいです。

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■ なかなかっち  
私は物心ついた頃から人と接することが苦手で済んだことをいつまでもくよくよ思い悩む性格でした。幼稚園の時仲良くしていたクラスメイトの男の子がいましたが、ある日その子が風邪でお休みをした時、家も近かったので帰りに連絡帳を届けてあげると先生から連絡帳を受け取りました。ところが、その子の家が団地だったこともあって間違えて違う家のポストに連絡帳を入れてしまいました。後から気が付き、自分は大変な事をしてしまった、もう幼稚園には行けないとどん底に落ちたような気がしてトボトボと家路につきました。先生にもすごく怒られると地獄に落ちたような気持ちで次の日に幼稚園へ行きましたが、誰にも何も言われずその男の子も元気になって何事もなかったように幼稚園に来ていました。小学校2年の時父の転勤に伴い千葉県に引っ越しました。見知らぬ土地で、また見栄っ張りな関東の習慣にもとまどいました。
小学校4年の時自由選択の必須クラブで私が女子1人だけになってしまったことがありました。先生も1人だけぽつんとしている私にどうして良いかわからなかったのか見て見ぬふりをし、私もその科目の時には部屋の隅で座り込みじっと動かないまま耐えて過ごしました。その様子を他の女子に見られるのがとても恥ずかしく本当につらい体験でした。
小学校5年の時父の転勤で再び大阪へ戻ってきました。ある日、学校で原爆のアニメを見ることがあったのですが映画の中の描写にとても恐怖を感じ、その後もその風景が頭から離れなくなり恐怖を頭の中から消し去りたいととらわれるようになりました。また、自分がそのような光景をバカにしているのではないか、それを神様が見ていてバチが当たるのではないかと恐怖するようになりました。
対外的には私は弱く見られたくないという強がりから思ったことをなんでも口にしてしまう子でした。それが災いして中学1年の1学期の終わり頃、授業中に近くの席の男子にからかわれたことがありました。みんなの前でからかわれた事が恥ずかしくてたまらず、「口は災いの元」を身にしみて感じ、次の2学期からは口を閉じる決心をしました。それからしばらくは口を閉ざしていることが苦痛な時もありましたが、だんだん慣れ始めそれが当たり前になっていきました。すると急に 「自分は他の人からどういう風に見られているのだろう」と気になりはじめ自分の存在がとても恥ずかしく感じるようになりました。また、その頃から「誰にでも好かれる良い人にならなくてはならない」という理想が出来はじめ、その理想で自分をがんじがらめにするようになりました。理想とかけ離れたあってはならない嫌な考えを頭の中で切っては捨て切っては捨てのやりくりを繰り返すようになりました。しかしそれは切っても切っても次々湧いてきて、ますますとらわれの悪循環にはまっていきました。また、他人と自分を比べては自分の駄目な所ばかりが目に付き「自分はなんてダメ人間なんだ」と落ち込みました。相手に嫌われるのが恐くてどう振る舞ってよいか、何を発言すれば良いかわからず悩むようになりました。
そのうち自分は何か精神病になってしまったのではないかと思うようになりました。こんな病気をかかえているのは世界で自分一人だけだと思いこの病気にどう対処すればよいのか分からず、誰にも相談もできず日々もんもんと悩み続けました。外出すれば前から歩いて来る人との目線に困り手の動き、足の動きの1つ1つが気になりぎこちなくなりました。電車で座れば前の人との目線が気になり恥ずかしくうつむいていました。学校でも何かあるとすぐ顔が赤くなり、その事で周りにひやかされはしないかと心配でそんな自分が嫌でたまりませんでした。友達もあまり出来ず苦痛な毎日でした。中学卒業式の日、一緒に帰る約束をしていた数少ない友達の1人に約束をすっぽかされてしまいました。約束を守って校門の前でじっと待っていた私は、結局とぼとぼ1人で帰ることになりました。家に帰ると耐えきれず母の前で大泣きし最悪の卒業式でした。
高校へ入ると私をさらなる強迫観念の道へと迷い込ませる事件が起こりました。入学して間もない頃、同じクラスの男の子からデートの誘いを受けたのですが、特別何とも思ってなかった人だったし症状で一杯だった私にはそんな心のゆとりもなくその場で断りました。しかし、それ以来その噂がひろがってしまい、しばらく周りや友達に噂されたり冷やかされたりする事が続きました。劣等感の塊でとにかく目立つことが恐かった私にとって恥ずかしく苦痛な日々が続きました。ひそひそ話をしている人がいれば、私のことを噂していると思い、笑い声がすれば私を笑っているように感じました。そうする内に、私が本当にその男の子を好きになってしまったらどうしようと思うようになりました。そんな事になっては大変だと頭の中に浮かんでくるその恐怖観念を切っては捨て、切っては捨ての繰り返しが始まりました。来る日も来る日もそのやりくりに一生懸命で精神的にへとへとになりました。それが2年ほど続いた後、高校3年生の時また別の事件が起こりました。今度は別の男子から今で言うストーカー行為を受けるようになりました。学校からの帰り道、いつの間にか後ろからぴったりつけられ、電車の中でもいつの間にか目の前に座り、私が歩き出すと足を踏みならしながら一緒について歩き出すということがありました。無言で目はまっすぐ前の一点を凝視しており、こちらを見ていないのに視界の一部でこちらの行動を把握している気配が感じられ不気味でした。当時はストーカーという言葉もなく、直接何かされたわけでもなくこういった事例にどうしてよいのか分からない状況で、ただただ恐怖心で一杯でした。すると、今度は「この変人を好きになってしまったらどうしよう!」と思い始めてしまい、またしてもこの恐怖感情を切り捨てるやりくりが始まりました。勉強どころではなく、家に帰ってご飯を食べるとすぐ部屋にこもり頭から布団をかぶって寝てしまうことが多くなりました。自分はノイローゼになってしまうのではと思いました。明日から学校へ行くのをやめられればどんなに楽かと思いましたが、登校拒否なんかしたら自分の人生の経歴に傷がついてしまうと思い、またそんな事になれば人に噂される事になると思うと恐くてできませんでした。ストーカー行為は卒業後もしばらく続き、手紙が届いたり、留守時に電話なども何度かあったようです。年賀状が届いた時は恐ろしさのあまりすぐ神社へ厄落としに行きました。
また、高校時代には神罰恐怖もありテストで一度書いた答案を書き直さなくては何か悪いことが起こったりたたりがふりかかるような気がして、答案の書き直しを繰り返しました。強迫観念に気をとられるあまり、書き直したものが間違っていたこともありました。手を洗う時は右手からじゃないとたたりがあるとか、こっちの道を通らないと家族が不幸になるとか、次々と浮かんではとらわれる状態でした。また、なぜかものを食べているところを人に見られるのも恥ずかしく感じお昼のお弁当の時間や友達と帰り道での買い食いを人に見られることも苦痛でした。家では母への依存心が強く、いつも母の顔色をうかがっていました。母に見捨てられたら自分は終わりだと恐怖でした。
高校卒業後、短大になんとか進学することができましたが、そこでも新たな悩みが発生しました。高校時代までは制服で一日のほとんどを生活していたのが、私服に変わり自分は他人から見ておかしい服装なのではないかととらわれるようになりました。
学校の行き帰りや外出先で不意に知り合いに会った時など、自分の格好の恥ずかしさにとらわれ人と会うことが苦痛でたまりませんでした。修道院にでも入ってしまえば、服装に悩むことがなくなるのではないかと考えました。
短大に入学しクラブ活動で友達もできましたが、常に人に好かれたい嫌われたくないという気持ちが強く常に「次になんと答えればこの人に気に入ってもらえるか」、「どう答えれば自分を大きく見せられるか」ということばかりを考えていました。症状に悩み続ける中で2年生になっても就職活動はほとんどしませんでした。当然ながら就職は決まらず就職浪人をすることになりましたが、幸運にも卒業後に先生から仕事を紹介していただけることになりました。人と接することが苦手な私にとっては部屋にこもって人と接することの少ないまだ気楽な仕事でしたが、それでも未知の世界であった“会社”に行くのが怖く、前日になってやっぱりいきたくないと母に泣いて訴えました。しかし結局行くしかないと分かっていましたので、あきらめて行くことにしました。
初めはこわごわでしたが仕事にもだんだん慣れ、人と話をすることもある程度型にはまった状況なら対応できるようになってきました。ただお昼休みや、会社帰りに会社の人と駅で出くわしてしまった時や飲み会の時など、どうふるまったら良いのか、何を話してよいのかわからず緊張して自分に意識が集中しました。食堂で飲み物を買う為に立ち上がって1mほど離れた自動販売機へ向かうことさえぎこちなく、顔が赤くなりました。会社帰りに私服を見られることも苦痛で、仕事が終わり着替え終わると誰にも見つからぬよう走って会社の門を飛び出していきました。社会人になり収入を得て好きな物も自由に買えるようになったのですが、新しい服を買っても買っても恥ずかしさは消えませんでした。買った時は明日から悩まずにすむと未来が明るくなったような気がするのに、次の日になると自分は店の中で一番変なものを買ってしまった、やはり自分は駄目人間だ、この恥ずかしい自分から抜け出すことはできないのだと落ち込むのでした。
就職してすぐの頃近所でたまたま募集していた市民バンドのメンバーに応募し、学生時代にやっていたブラスバンドを再び始めることにしました。週一回の練習に、初めのうちは1回でも休むと人の輪の中に入っていけないような気がして何がなんでも参加するようにしました。前日結婚式で東京へ行った時も次の日の練習に間に合うよう早朝の新幹線に乗り昼からの練習に無理矢理間に合わせました。私はバンドでの並びが最前列にいたため、練習の時も後列に座る人たちの視線が自分の背中に集中しているような感覚にとらわれ、背中が緊張して身動きがとれなくなりました。演奏の楽しさを感じることもありましたが、人間関係や対人緊張の苦しさから練習に行くのが苦痛になっていきましたが、こんな事でやめてはいけない、逃げてはいけないと自分にムチを打ちながら練習に通いました。
社会人になってからも自分をなんとか変えたくて、カウンセリングに通ったり積極的に発言するトレーニング教室にも行きましたが、今ひとつ効果も感じられず長続きもしませんでした。就職して1年ほど経ったころ、母から長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」を手渡され、読んでみると私と同じようなことが書いてあったので早速、初心者懇談会に出席してみました。初心者懇談会で、世話役の方が「あなたの悩みは誰にでもあるものです」と(恐らく私の気が楽になると思って)言ってくださったのですが、「私の悩みなど他の人に比べると取るに足らぬものだ、私のような者がここに来ると真剣に悩んでいる人たちの迷惑になる」と行くのをやめようと決めました。しかし、他に頼るものもなく結局いてもたってもいられずその2ヶ月後には集談会に参加するようになりました。
集談会に参加し初めた頃早く治りたいと気ばかりがあせり、自分がちゃんと直る方向に進んでいるのか心配で仕方がありませんでした。螺旋階段状に症状が良くなると聞けば、自分は今その螺旋階段の上を歩けているのか、ふみはずして違う方向へ行っていないかと心配になりました。入会して3ヶ月後に先輩から基準型学習会の受講を進めてもらいましたが、発見会の案内には「基準型学習会は入会後半年ほど経ってから受けると良いでしょう」というような事が書いてあったのが気になり3ヶ月で受講してしまってはちゃんとした効果が得られないのではと心配になりました。しかし基準型学習会を受けてみると何もかもが新鮮で参加する度に新しい発見がありました。講師の方の体験発表に共感し感動して涙が出ました。まずはアドバイスをいただいた「何にでも気軽に手をだしてみる」をモットーに、会社が終わった後、毎日を習い事などで予定をぎっしり詰め込みました。しかしそれをこなすため毎週毎週へとへとになりました。それでもこんなことで弱音を吐いてはいけない、負けてはいけないと自分にムチを打ちつづけていました。勉強を続けていくうち徐々に「正体不明の不治の病」の正体が自分自身が作り出したものであったことが分かってきました。同じ悩みを持つ仲間と話すことで共感が得られ、自分の悩みは世界に一人だけだと思っていた孤独感が消えていきました。自分の中だけでああでもないこうでもないと悩んでいた事も集談会で口に出してみるとそんなたいしたことでもなかったのかと気づかされることもありました。
びっしり詰め込んでいた習い事が減ってゆき、症状のグチをいわなくなり、少しずつとらわれから解放されていきました。周りからも「雰囲気が変わったね」「明るくなった」と言われるようになり、どうしようもないくらい落ち込まされた強い劣等感も意識することがなくなっていきました。
入会してはや10年が過ぎましたが、症状にとらわれきっていた時代を振り返ると、すりガラスを通してぼやけた外の世界みているようだったと思います。
対人恐怖は自分をなんとか隠したい、ごまかしてしまいたいとする部分が大きいようです。私も自分の本当に悩んでいる肝心なところをなかなか思い切ることができませんでした。2年前結婚を考えていた時も恥ずかしくてなかなか言いだせず一人でああでもないこうでもないと一人で悩んでいましたが、勇気を出して先輩に相談してみるととても親身になって相談にのっていただき、細やかなアドバイスに助けられ結婚にも踏み切ることができました。みんなに隠れて何事もなかったように見せたい、上手くいった部分だけを見せたいとムシの良いことを考えていた自分に気づかされました。
まだまだ未熟ですが森田療法に出会えたこと、ここまで立ち直らせてくれた集談会の仲間に感謝しています。
これからは自分が助けられたように悩んでいる人の手助けになりたいと思います。つたない体験ですが同じ悩みを持つ方に自分だけではなかったと少しでも感じていただければと思います。

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■ haya   強迫観念の森を抜けて
私は子供の頃より人前で話しをしたり、人と関わったり接することが、とても嫌でした。誰にでも人見知りしてしまい、警戒心の強い内弁慶タイプでした。子供の頃はその警戒心から、どう思われるだろうかとか人から見透かされるのではないかと怖く、家に来客があっても部屋に逃げこんで人と接する場面をさけることがよくありました。大きくなってからわかったことですが、私は気が弱いのではなく、何でも自分の思う通りにならないと気に入らぬという傲慢なわがままな子供だったのです。
見知らぬ人や日頃あまり関わりのない人の前では、自分を表現出来なくても逃げておけば誰にもわかりませんからそれですみました。しかし、両親など利害関係の強い人にはそういうわけにもいかず、ものすごく強情で一度言い出したら決して譲ることはないという風うでした。

幼稚園の頃はみんなの中に入っていけず、ほとんど口もきかずにいつも一人でポツンといるような状態でした。そんな状態をまわりの人はどう見てるのだろうかという思いが強く、淋しさもあったのですが惨めさと劣等感を強く感じていました。

こんなことではいけないと小学生になってからは少しずつ自分から人と関わりをもつようになりましたが積極的に遊びの輪の中や人の中には入っていけませんでした。それでも何人かの気の合う友達とは遊んだり関わったり出来るようになりました。私にとっては付き合いやすいような人と関わることが多かったように思います。私は人から非難されることや喧嘩になるようなことを、常に本能的に避けて成長していきました。

自分から積極的に関わっていこうとしないくせに人から嫌われたらいけない、仲間はずれになってはいけないと頭のなかでばかりそんなことを考えていました。やがて二進も三進もすすめない地獄のような苦しみを味わう神経質という性格を幼い頃から持っていました。

何事にたいしてもスッと手が出ない私は、いつもグルグル頭の中だけで考えて、やっと行動しするという風になってしまいました。当然、いつも緊張を虐げられる生活になります。何度も何度も持ち物を確認しないと心配で家から出られない。不安感から緊張で手足が汗でびしょびしょ、冬でも身体から冷や汗がでたりという感じでした。引きこもりがちで、体調もよく崩して寝込んだりしてました。それでも負けん気だけは人一倍強く弱みを人にみせたくないと表面上は強がって見せたりもしていました。しかし相手にあわさないといけないと思ったかと思えば、全くその反対の考えが頭を支配して、いつも立ち往生していました。

頭の中での格闘を人には見せたくないので嫌なことや不安な感情をどんどんおさえ込むようになっていきました。どんな感情も押さえ込めばなんとかなる、解決するとその頃は思っていました。これがとんでもない間違いのもとであったのです。

その後、私が森田療法を学ぶようになっても、どうしても感情を押さえ込んでしまい素直になれず、ドンドン周りの先輩や後輩が神経症を克服して良くなられる中、私一人取り残されるような状態に陥りました。

家族は両親と祖母、兄との5人家族でした。両親や祖母は喧嘩一つしない仲のいい家族でした。と言えば、世間体の良い感じでしょうが、私から見た家族は、本音を言わず波風をたてず、静かに何ごとも丸くおさめなければという感じでした。ですから、私もそんな中で育ったため何でも心の内に押さえ込み閉じこめていくようになったのかも知れません。息苦しさや身の置き所のない心苦しさをいつも感じていました。

クリスチャンの両親と仏教の祖母からは「人を嫌ってはいけない」「良い行いをしないといけない」「人には親切にしないといけない」というようなことをよく言われ、思い込みの激しい私はドンドンと自分の中でこうあらねばということを膨らませていきました。また、そうできないことに対しとらわれていきました。

両親や祖母が人を嫌ってはいけないなどといいながら、家では知り合いのことを悪く言ったり、批判したりすることもあったりして本音と建前の違いに嫌気がさし偽善者のようにしか思えなくなりました。また、すがったり見返りを求めたりする両親祖母の宗教観に反感を感じ、この人達の宗教観はおかしいと子供らしくないこと感じていました。また両親祖母に対しそういう思いを持ってしまうこともつらく悲しみと苛立ちが募っていきました。
スッと行動に移せない自分のことは、棚にあげて、人と関われない、こんな性格になったのは親のせいだと、いつも苛々するようになっていきました。

頭の中ではたえず両親を責めるようになり、ほとんど口をきかなくなりました。いつまでもグルグル妄想を重ね、何が素直か何が強情なのかもわからなくなっていきました。本当に苦しい強迫観念地獄です。当時の私には何が辛いのか何が嫌なのかはっきり説明することができませんでした。何か親に話しかけられても「うるさいな!」と言い返すことぐらいしかできませんてした。

両親には「言いたいことがあるならちゃんと説明しなさい」「なんでそんな態度をとるの」と怒られるのですが結局、無視する態度しか取れないのです。こんな事ではいけない、もっと素直になろう、親ともきちんと話して関わろうとは思うのですが、いつもできずにそのたびに、また、やってしまったという罪悪感と自己嫌悪に悩まされました。こんな事ばかりを繰り返す人生です。

外では従順ないい子でいようとしたり、家では家族に対して無視した態度をとったり、とても矛盾した生活で、自分でもどうすればこの苦しい状態から這い上がれるのかわかりませんでした。兎に角、自分を押さえ込んで、親に対しては、「どうして私をわかってくれないのよ」とわだかまりが増していき、いつしか憎しみのような感情まで出てきました。いつも疲れてヘトヘトとになりました。胃が痛かったり、慢性疲労感で身体の調子が悪く、何をするにも身体がしんどくて気力も出てこなくなりました。行動することよりも悶々と悩むことに時間を費やすようになりました。

意固地とはこういうことを言うのでしょうか、感情の押さえ込みに拍車がかかり、強い不安がさらに膨らんでいきました。学校や家庭の嫌な出来事を考え込んでしまったり、その逆に思い出さないようにしようと努力したりしました。自分を出さずに暮らすようになりますます、自分の考えや思っていることを表現せずただただ押さえ込むことに必死でした。

そのうちに見た物が何であるかわかるが、それが言葉と結びつかないという感じの状態になっていきました。どう言葉をつなぎあわせたらいいのかというような感じでした。言葉にしようとするとストップがかかってしまい、話すことを避けるようになり、話せないことをますます悩むようになりました。

それでも何とか学校には行っていました。勉強は最低限必要なことだけやり、特定の人とだけ関わるという感じでした。実際は現実逃避の生活を送っていました。短大を卒業後は父が仕事上お世話になった方が勤務されてる会社の試験を受けて就職が決まりました。こんな私でも就職できうれしかったのですが、縁故入社のような状態にとても引け目を感じていました。その会社では、私の嫌な新入社員研修がありました。新入社員は30人程度でしたが、みんなの前での発表や、グループ討議、団体行動はなじめずに途方に暮れました。

男性の多い職場で同性でもなかなか付き合いの出来ない私が、男性と接することなど出来ません。もう殆ど男性恐怖の毎日です。仕事を頼まれても、何をどうしていいかわからず苦痛でした。少ない同期の女性の中にもすぐに親しくなれそうな人はいそうにもありません。このままやっていけるのだろうかと大変不安になりました。

入社直前の宿泊研修に行く途中で同期の男性の一人と偶々一緒になり集合場所まで行ったのですが、そのことに対してみなから冷やかされました。そして、いろいろと根も葉もない噂をたてられたり、嫌みを言われました。仲間はずれというか孤立したような状態になってしまいました。思い込みの激しい私ですから、ますます居ても立ってもおられなくなりました。

そのことがきっかけで、私はこの会社では、もうやっていけないと思いはじめました。また、この会社でやっていけなかったら、この先私の将来はなくもうダメだと思いました。落ち込み状態がひどくなり、食事もほとんど喉を通らないという感じになってしまいました。

私の鬱ぐ様子があまりにも変だったので、母が気づいて会社で何があったのかと心配をして聞いてくれました。幼い頃から今日まで黙って押し通していた感情が堰を切ったように流れていきました。会社での出来事、小さい頃からどれだけ悩んでいたかをとうとう話したのです。今まで話したことがなかっただけに、この日の母の驚きは大変なものでした。(母は私が小さい頃から悩んでいるとは知りませんでした。なぜこんな態度をとるのだろうと思っていたようです。)

新聞を見て森田療法や生活の発見会の事を知っていた母は、一度集談会に行ってみてはどうかとすすめました。病院に行ったり薬をのんだりしたくなかった私は、森田のことなど何もしらなかったのですがここでなんとかなるかなというかすかな思いで初心者懇談会に参加することにしました。熱心そうな方が一生懸命に森田療法を語っておられました。とりあえず集談会に行ってみようかなと思いました。

集談会に参加するようになり、同じような悩みを持った方が話をしてくださり、私の話に共感していただき、ホッとできたのがうれしかったです。しかし、いろいろ言っていただいても素直でない私は、元気なあなたと私とでは違いすぎると感じ距離をおいて参加していました。

毎日家に帰ってから「もう会社に行きたくない、辞めたい。」と泣いて、親に愚痴ってばかりいました。頭の中は会社での嫌な出来事で一杯でした。会社では私の苦手な研修会が沢山ありました。研修会の都度、みんなの前で何か失敗するのではないか、また疎外されるのではないか、そんなことばかりが頭に浮かび、その都度落ち込んでいきました。

研修会に参加してもオドオドしたり、話しができなかったことなどで、さらに落ち込んでいきました。対人関係の不調から身体の具合も悪くなり、胃や背中が痛く起きているのもしんどいことが多くありました。会社ではだるくて座っているのもやっとでした。通勤の駅までの道のりも通常の倍以上も時間がかかってトボトボと歩いていました。すぐに熱をだしたりしていました。それでも会社にはかろうじて行っていましたが、休みの日になるとしんどくて起きておられずいつも寝込んでいました。

集談会では、先輩たちが、「辛いけど頑張ろうね」と優しく声援してくれました。私は愚痴を言わないように注意し、感情はそのままに仕事や家のことなどの目的をはたすように、少しずつ行動していくようになりました。

それまでは、会社から家に帰ると親に愚痴を言っては泣いて何もせずすぐ寝てしまうという生活をしていたのですが、食事の後かたづけアイロンがけ等、家のことなどに手をだしていくようになりました。いつも頭の中だけで、堂々巡りを繰り返していた私が、常に行動を重視するようになっていったのです。嫌な感情はそのままにして、会社の仕事、行事や研修なども目的をはたすようにしていきました。嫌だなと感じている裏には、人から認めてもらいたいという思いや仲良くやっていきたいという欲求が強くあるんだなということもわかってきました。

小さいころよりこんな性格になったのは親のせいだと恨んでいましたが、森田先生の教えを勉強していく中で親のせいにしないで生きていこうと軌道修正が出来ました。親との仲も氷解していきました。親も私を一生懸命育ててくれてたんだなとわかりました。今までの私は何だったのだと恥ずかしくなりました。

親の知り合いの会社に入社させてもらった手前もあり3年はどんなことがあっても辞めず勤めようと思っていましたが3年過ぎた頃に仕事を変わりたいことや新しいところでやってみたいという思いも強く転職しました。今度は自分で会社を探し、面接も何社か受けました。私にでも声をかけてくださる会社がありとてもありがたく感じました。今まで自分から動くことがなかった私にとっては大きな出来事でした。しかし、新しい職場でも人と話をするのは苦手でなかなかまわりの人と溶け込むことができずにいました。でも、仕事は仕事と割り切って、黙々と仕事をこなしていきました。

転職して3年後の1995年。阪神大震災がありました。家は全壊し、しばらく親戚の家でお世話になったあと引越をしました。祖母は震災のショックが引き金になりもともと持っていた病気が悪化して寝込んでしまいました。お医者さんのすすめもあり高齢だった祖母は家で看病することになりました。震災後は家族や家の中も落ち着かず大変でした。身体も毎日ヘトヘトとで疲れ切っていきました。

その年の4月に職場の移動がありました。子会社の大阪営業所を新たに立ち上げるということで事務所も設備もシステムも何も整っていない中、正式移動前の2月頃から準備にも追われていました。10人の営業所で女性は私を含めて3人だけという小さなところでした。話し好きで、うわさ好きの二人は仲がよく、私は二人の中にはあまりはいっていけませんでした。仕事、仕事と精を出しました。二人は営業所内の人の悪口や中傷ばかりしていました。私のことも「雑談もせずに黙々と仕事をして、おかしい人間だ。」そして、露骨に「もう、やめたらいいのに……。」と、陰口をたたかれました。

私が思ってもいないようなことを勝手に「絶対そう思ってるに違いない」とか、さんざん言われていました。聞き流しておけばいいようなことなのかもしれないのですが、自分のことに自信がなく、ちょっとした人からの言葉にも傷つきやすかったので、どんどんとらわれて落ち込みがひどくなっていきました。聞こうとしなくても話し声が聞こえ、また他人の悪口のときでも自分のことをいわれているのではないかと被害妄想的になりました。

震災や家での出来事、新しい職場でのことなど思い通りにならない現実と自分自身に対して呪うような日々を送っていました。

丁度その頃、大阪金曜夜間懇談会が発足しました。この会は自己紹介や体験交流はなく、理論学習の単元を毎月学習していくというものでした。私の性格を見抜いていた万代さんから声をかけていただき第1回目から参加させていただくことになりました。過去の発見誌の学習シリーズの中からよいと思われるものを探して、毎回、万代さんがテキストとして用意していただきました。発見誌のコピーではなく、毎回、パソコンで入力して編集したものを用意していただいたことに、一体この人はと吃驚しました。世話役をされていた堀内さんも万代さんの森田に対する熱意をヒシヒシと感じ、まさに森田道場という感がありました。今までの居心地の良さを求める集談会とは違い、純粋で厳しく茶菓子も出ない森田学習にだけ取り組む会で、いつしか私も熱心に耳を傾けるようになりました。

何年も参加しても自己紹介もろくにできず、一寸したことですぐにシュンとなって押し黙ってしまう私は、この会では長続きしないだろうと思われていたようです。しかし、写経のように毎回作られてくるテキストをもとに、先輩方の気合いのこもった厳しいやり取りにも慣れ、私は森田先生の言葉を通して自分を表現することができるようになっていきました。その淡々と学習していくスタイルが当時の私にはとてもあっていたようです。

森田のことを何も知らずに発見会に入った私でした。基準型学習会、集談会、森田書籍から学んでいきました。苦しくとも行動もしていきました。やがて、森田先生の原著も読むようになりました。頑固で愚図で理解力のない私ですが、森田先生の言葉は苦しんでる私の心にガンガン響いて来ました。後に懇談会も森田先生の著書をテキストとして使うようになり一からみんなで学んでいくようになりました。

熱心にそして淡々と繰り広げられる万代さんや堀内さんやみなさんのやりとりは、その場限りに消してしまうのは、とてももったいないように思いました。何かの形で他の方にもお伝えできればいいなと思いました。そして、私は話される内容を懸命にメモして書きとめていくようになりました。


拙いメモでしたが、やがて慣れていき、書き取る速度も以前より速くなっていきました。懸命にメモをとり没我の状態が生まれていきました。万代さんは苦しい過去を振り返り「僕は誰よりも愚図で馬鹿だ。いくら読書をしても駄目なので、写経のように先生の著書を一字一字書き写した。」と言います。写経のように森田を勉強されたの万代さんを見習って毎回毎回コツコツとメモを取り続け、森田先生の言葉をコツコツ書きためていきました。勉強をする中で森田先生の言葉を苦悩者に伝えたいという思いが強くなりました。
大阪金曜夜間懇談会のHP「くまったくんとありのママさん」はそんななかから出来上がりました。みんなで企画して、HP製作に詳しい幹事のIさんが製作してくれとても可愛いホームページとなりました。

これまでは、明るく活発な性格でなくてはならない、誰とでも親しくなり、誰からも認められなければいけないなど、自分の中のこうあるべきだにしばられ、そうでない現実に悩み劣等感を感じ落ち込んでいました。「こうでなければ」「こうあるべきだ」と自分の頭の中で勝手に観念的につくりあげてたんだなということに気づきました。

自分のことしか考えられず、人に対して思いやりのあるような行動がとれない。それに反して、人には自分に対して親切にやさしくしてくれるべきだ、許してくれるべきだと、自分の理想を人にばかり押しつけていました。全く傲慢な人間だと気がつきました。

私はただみなさんについていっただけですが、振り返ると世話役・代表幹事・支部委員をさせていただいてました。自分から望んでのことではありません。いつもいつも尻込みをする中、みなさんに背中を押していただきました。徐々に人との関わりを維持出来るようになっていきました。

会社では陰で嫌みや悪口を言われて気になっても、苦手な相手でも、関わらないといけないような場面は自分からも声をかけたりするようにしました。仕事がスムーズにいくように自分だけのことだけではなくまわりのことも見ながら進めていくようにしました。そうして、まわりの人達と自然に関わっていけるようになりました。

また自転車乗って楽しそうにしている西宮夜間の小林さんや万代さんが羨ましくなって、運動音痴の私もついにロードレーサーに挑戦しました。岡山、京都、兵庫などの自然いっぱいの場所に連れていっていただきました。体力がなくみなさんについていくのもやっとという感じですがみなさんはいつも応援してくださり私が追いつくのを待っていてくれました。京都に行った時は自分の不注意から顔を何針か縫う大怪我をしてしまいました。小林さん、万代さんらみなさんには病院や家にまでつきそっていただくことになり、心配とご迷惑をおかけしました。いつもまわりに迷惑ばかりかけている私ですが、木々や緑、きれいな花、まわりの自然は私の心を素直に導びいてくれました。また以前にくらべると体力もついて何年か前より動けるようになっています。

集談会も長く参加している中で、多くの人との関わりの中で教えていただくことも多く、お世話させていただく中で自分のことだけでなくまわりのことにも少しずつですが目がいくようになりました。励まし、手を差し伸べていただいた、懇談会、集談会、ブロックのみなさんには感謝しています。

なかなか素直になれず頑なになり、表現することも押さえ込みがちになりやすく、まだまだ人生経験不足な面が多いですが一歩踏み込んで、まわりの人との関わりも大切にして生活していきたいと思います

最後に最近の懇談会でのことを書かせていただきます。金曜夜間懇談会では公開しているホームページとは別に非公開で掲示板を開設しています。金曜夜間のメンバーや金曜夜間と関わりのある方だけの内輪で運営しています。私は強迫観念的な性格から、最初の頃はなかなか掲示板に飛び込めませんでした。ネットに馴染んでいる若い方を中心に毎日が集談会のような状態で、熱心に話し合いが行われています。

最近では新しく入られた方々が短期間で、ドンドン良くなっていかれる光景を目にしています。成長されていく様子が掲示板でもよくわかります。日記、森田の話、遊びに行く話など掲示板の内容は盛りだくさんです。月1回の集談会だけではなく毎日の話し合いの中で「神経症は病気ではない」「不安を取り除くことが人生の目的ではない」「神経質は磨けばとても良い性格である」などなど、森田先生の教えを短期間で身に着けていかれます。行動した事実を大切にされるようになり、前に前に進んでいかれます。掲示板に書かれた内容をもとに、克服体験記をまとめられるようになりました。

私は森田に出会ってからも、苦しい、治らないと思い続けた期間が長すぎました。症状を目の敵にして、症状をなくすことに全力を上げて行った期間が長すぎました。神経質傾向を活かしていくことをすっかり置き去りにしていました。自分の感情を大切にするあまり、事実に目を向けることができず、グズグズとと悪戯に時を過ごしてしまいました。

今、私は、若い方が、メキメキ伸びて行かれる様子をとても羨ましく思います。長い年月をかけてやっと解った自分がとても淋しいし、悲しいなとも思います。しかし、その一方で長い年月少しずつ懇談会で積み重ねていったことや、ホームページが若い方や新しい方達にとって少しは役にたったと思うと喜びもこみ上げてきます。

世話役として参加するようになってから後もずっと、とろくてのろい私は懇談会などでもみんなの足を引っ張り続けて来ました。これからは若い方や新しい方を引っ張り持ち上げていけるようになりたいなと思います。こんな私だから解るのです。強迫観念のみなさん、いつまでも強迫観念の森を彷徨い歩いてる場合ではありませんよ、ぐすぐずしていてはいけないですよと、言えるのです。

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■ チカさん   神経症になってよかった

私は、両親と妹の四人家族の中で育ちました。物心ついてからは、教育熱心な母親の期待に答えることが自分の使命だと思っていました。小学生の頃は、とにかく勉強しているふりをして、部屋にこもっていました。よく疲れたといっては、病院に行き精神的に不安定になると、指の皮が剥けて何ヶ月も治らない、アトピーのような症状もひどくなります。人前で発表するとか、順番に当てられるとかいう事が嫌で、異常に緊張している自分が情けないと思ってました。地域の学校に行ってなかったので、学校から帰ると一人で公園に行って、逆上がりの練習をしたりしている寂しい子供でした。
そんな私に転機が訪れたのは、中学受験の失敗です。絶対受かると思ってた付属の中学に行けなかったのです。「親に悪いことをした」と思う反面、「これで期待に答えなくていい、普通の人になろう」と思った私は、神経質だった小学生時代と打って変わって、勉強以外のことに目が向き、成績は落ちましたが、それなりに高校、短大と楽しい日々を送っていきました。社会人になってからも、ずっとこのまま楽しい日々が続いていくと・・・。これは30代前半にパニック発作を起すようになるまで、そう思っていました。

 しかし、思い返してみると環境が変わるたびに神経質傾向が出てきます。25歳で結婚し、主人の実家のはなれに住むことになりました。主人の両親と弟さらに大姑と田舎の風習や決まりごとなど、核家族に育った私には、驚くことばかりでした。今まで、わがまま放題だった私にとっては、たいへんでした。嫁という立場から、完璧にやらなくてはと思っていました。
この頃は、一日に何度も手を洗い、その為アトピー症状がひどくなり、手のひらの皮が全部めくれてしまいました。皮膚科で手を洗ってはいけないと言われ、行為はやみました。
たびたび、ひどい頭痛を起こし吐いていました。市販薬を飲んで、一日たつと治ると思い込んでいたので、とらわれることはありませんでしたが、今考えると、休みの日だけ起きるあの頭痛は、なんだったのかと思います。
 私がパニック発作を起すようになったきっかけは、主人が腎臓ガンにかかったことからです。私が33歳の時です。結婚してから、主人に頼りきっていた私は、うろたえました。「もし、死んでしまったらどうしよう、一人では生きていけない。」そんな思いばかりが駆け巡りました。「本人のほうが本当は辛い、私がしっかりしないと」と思い、明るく振舞っていましたが、眠れない夜が続きました。この頃、実家の父も入院することになり、母も体調を崩し、「私が頑張らないと」とますます思うようになりました。仕事に行っている時だけが忘れられ、楽だったように思います。
 主人の抗がん剤治療も終え、退院後、今までずっと我慢していたのがあふれるように、出勤途中パニック発作を起すようになりました。
 突然、不安感が沸いてきて、手足がしびれだし、脈も速くなり背中が痛くなってきます。倒れませんが、背中の痛みが腰の辺りまで落ち、おさまるまで前のめりの姿勢でうずくまります。
 始めは何がなんだかわからず、「何か、さっきからおかしい、ざわざわする。」と会社でも訴えていました。発作の時に痛みもあったので、病院で検査もしましたが、異常はありませんでした。人からは「自律神経失調症」と言われました。仕事も手につかなくなって、とりあえず休みを取り、寝たほうがいいと思い横になっていました。
間もなく、「また、なるかも」と、予期不安にさいなまれるようになり、逃げられない場所、通勤電車、高速道路で渋滞した時など発作が起き、車に乗る事も、運転も出来なくなりました。日常で一番困ったのは、スーパーのレジに並ぶ事が、出来なくなったことです。「並んで待つ」ということが困難になった私は、銀行、病院など次々恐い場所が増えていきました。耐えられず、それから心療内科に行くようになりました。それが、死の恐怖と言われるということを知ったのは、何年も後のことです。

 そのほかにも、美容院で顧客カードを書くとき、手が震たことをふと気にしだし冠婚葬祭や、契約を交わすときの署名で書けなくなるのでは・・・。この事は、不安発作の話のようにあまり他の人に、話したくありませんでした。「みっともない、そんな自分はあってはならない、隠さなければ」と思いました。学習会の自己紹介で、この震え恐怖の事を皆の前で話したとき、グッと胸を、切られたような気持ちでした。一年程前には、コーヒーカップを持つ手が、震えた事を気にしだし、食事でも震えるのではないかと会食恐怖になりました。
「この先、どこにも行けないし、楽しく食事する事もない、こんな惨めな自分は、生きてても仕方がない」と思いました。うつのような症状になり、食欲もなく、家事も出来なくなり、思考回路が停止したような状態になり「死にたい」と口走り、家族を慌てさせました。
三年前、それまで不安感を持ちながらも、続けていた仕事をやめた頃から、とらわれがひどくなっていきました。家に引きこもりがちになり、朝から晩まで症状の事を考えるようになりました。そんな頃、歯科医院で強い発作を起し、やめていた薬をまた飲み始めました。飲みたくないのに、飲まないと外出できないという葛藤が始まり、薬神経症になりました。
 家にいる時間が多いので、インターネットでパニック障害の事を検索していたら、森田療法のHPにたどり着きました。そこには私と同じ乗り物恐怖の方が、だんだん元気になって会社に通い、薬もやめられた話が載っていました。「これだ」と思い、すぐに本屋に行きました。それから1週間ぐらいは「もう、これで治ることが出来る」という気持ちになり、明るくなった事を思い出します。
 集談会に参加するようになって「家にいるより、何か仕事をしたほうがいい」と言われ、半年後、また簡単な仕事も始めるようになり、少しずつですが、行動するようになりました。
 その頃の私は、どんなことでも不快を感じたら、「周りの人が悪い」と、人のせいにしていました。道に転がっている石にでも、あたりたくなるほど、すねていました。家族や周りの人が、どんなに親切にアドバイスしてくれても、「いや、わたしの場合は違う」と何でも否定していました。変なところで自信を持ちながらも、その反面、森田で治っていく人を見て焦っていました。

 「これではいけない少しでも、進歩しなければ」と思い、まず愚痴を言うことをやめようと考えました。もともと、家族には愚痴ばかりを言っていたので、うんざりされているのを感じていました。だんだん、他の人にも、誰にでも言うようになっていました。誰かに訴えて、同情してほしいと思っていたのです。染み付いた癖なので、始めは我慢する事からでした。つい、のどまで出掛かってやめると言う感じでした。実践しているうちに、他の事柄について、少しですが、考えられるようになりました。それから、激しい落ち込みが少なくなってきました。愚痴は言えば言うほど、自分が取り込まれ、はまっていくということがわかりました。
 
 薬は実際、月に一錠ぐらいしか飲んでいなかったので、ほとんど気持ちの依存でした。私は、薬を最後の逃げ道として、何かあれば飲もうと、ずっと思い続けていました。そんな時、幹事会で今は、一応やめていることをみんなの前で言ってしまいました。こっそり、いつの間にかやめれたらと思っていたのですが、みんなに言ってしまったので「本当にやめなければいけなくなった、どうしよう」とあせりました。もう、カラ元気で乗り切る自信も、なくなってしましました。「もう、我慢するしかない。辛くなったら、集談会の先輩に相談しよう。」と考えました。クリニックの先生にも「決めたなら、信念を貫け」と言われました。
 
 その後、電車に乗る機会がありました。今までやっていた、電車に乗る練習のようなこととは違い、その日はどうしても今日そこに行かなければならない、何が何でも行くという覚悟がありました。嫌だったら途中で降りればいい、帰ればいいという気持ちは、そこにはありませんでした。必死で急行電車に乗りました。でも、恐ろしい。もう、恐怖そのものです。「我慢、我慢」と唱えるような気持ちでした。
 私の発作は、わがまま発作で、「もうダメだ、嫌だ。」と起こしてしまえば、それで満足するような感がありました。ですから、そこまで高めないようにしようと思いました。この日を機に、電車に対する恐怖は、薄れていきました。恐怖突入が、少しわかったように思いました。私は森田の勉強に対しても、懇談会に参加するにしても、冷めた目で見ていたと思いました。人に厳しく、自分に甘いので放っておくと、すぐに気分本位になります。今は何をすべきなのか、物事本位で考えられるようにしていきたいです。

 神経症になって、趣味程度ですが続けていたスポーツを、ほとんどやめていました。しかし、一年前から始めた自転車は、私を外に連れ出してくれました。少しでも外の空気に触れることができ、季節の移り変わりを感じるようになりました。もともとあまり食べなかった私が、食欲があって困ってます。抑うつ状態で、1杯のご飯さえ食べるのがやっとだった頃を思えば、今の食欲があって、食べられることは、ありがたいと思います。弱い心を支えるには、強い体が必要だと本当に思います。

 あと、森田の仲間の人とのメールや掲示板で日々頑張っている姿を見せてもらったり、自分も書き込んだりして皆さんとかかわっていくうちに、元気をもらうことが、一番良いように思います。集談会で実際にお会いしても、大変親しみを感じます。
まだまだ実践足らずですが、ここまで来られたのは大阪金曜夜間の皆さん、万代さんのおかげです。
 辛い時、言葉をかけてもらい、メールで励ましてもらい、本当に感謝しております。辛い時だけ相談するのではなく、もっと、皆さんの役に立てるようになれればと思います。

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■ sonoちゃん        

私は昭和44年10月に大阪市鶴見区で生まれました。家族は両親、姉、兄、双子の姉と私の6人家族です。
私は小さい時から、とても恥ずかしがりやで、近所の人に抱っこされても石のように固まってうんともすんとも言わないような子供でした。その反面、家では4人兄弟の末っ子ということもあり、とてもかわいがられてましたので、わがまま放題で、地球は私中心で回ってるくらいの感覚でいました。
そんなぬくぬくとした環境から小学生になって、教室に入るのが恐くて泣いたことを今でもおぼえています。あと幼稚園とは違ってクラス数も多く、徐々に私が双子だと広まっていくと、休み時間に他のクラスの子達がかわるがわる見にくるのが、とても嫌でした。
小学校4年生の時、父の仕事の都合で大阪市住之江区に引越しし、そこから徐々に家族の歯車が狂ってきたように思います。私が中学生になったあたりから、両親の夫婦仲がギクシャクし始め言い争いが絶えず、いつも父親の怒鳴り声にビクビクしていました。そんな中、ついに私が高校2年になる前の春、母は兄を連れて出ていってしまいました。正直、寂しかったですが、もうこれで両親の言い争いを見なくて済むとホッとしたのをおぼえています。
私が神経症を発症したのは21才の時でした。ある日、職場で前の席の人と雑談をしていた時、その後ろの席の人の視線がふと気になって、最初はなんかこっちずっと見てるな〜ぐらいの気持ちだったのですが、段々見張られているような感覚になり、また私が他の人と話していても、その人が視界に入ると意識がその人にひっぱられて、とてもとまどいました。
それから今度はその人を見てはいけないと、自分の目のやりば、視線に意識がいくようになり、その人の近くを通る時とか、前の席の人と話をする時、見てはいけないと思えば思うほど意識がその人へひっぱられ、自分で自分をコントロールできないことに、とてもとまどいました。
またそんな様子を見てか、その人とその仲の良い人達に「いつもこっち見てるよな〜」「○○さんが可哀想」と聞こえるように言われたりしました。また徐々に気になる人も増えて行き、段々と誰に対しても症状を感じるようになりました。
前から歩いてくる人、電車の向かいの席の人、お店の店員、飲食店等での隣の席の見ず知らずの人、隣で歩く友達に対してもとらわれるようになりました。自分自身、どうしてこうなってしまったのか分からず、ただただとまどい、こんな私は私じゃないとその当時住んでいたマンションのベランダで夜空を見上げてよく泣いていました。結局その職場は8ヶ月程で辞めてしまいました。
それから知り合いの写真の現像を扱うお店を手伝ったり、また正社員で経理の仕事をしたりしました。その間25才まで、自分の症状に対してどうしたら良いかも分からず、悶々と悩みながら生活していました。その一方、家庭では母が兄を連れて戻ってきて、また一緒に暮らすようになりました。
その後、両親が老後は一軒家に住みたいという理由で15年程住んだマンションから和歌山県の橋本市へ引越しました。また自分自身も一刻も早く以前の自分に戻りたいという思いから、性格を改善する通信教育を受けたり、心理療法指導室に高いお金をかけて通ったりしました。心理療法指導室に行って、自分が初めて「視線恐怖症」という神経症であるということが分かり、また自分一人だけの悩みじゃないことも分かり少しホッとしました。そこでは主にカウンセリングと自律訓練法を使って症状を改善していくというやり方でしたが、結局根本的な解決には至りませんでした。
26才で今の主人と出会い30才で結婚し、その間職場の人間関係にも恵まれ、症状は持ちながらもそれなりに楽しく生活していましたが、結婚して一年程たった時期に、その当時勤めていた百貨店が営業時間の延長をする事になり、私は主婦業との両立は困難と思い転職することにしました。
その後、派遣社員として働いていましたが、あるテレホンオペレーターの仕事で、その業務はパソコンで受信し、応対しながら画面に入力してと一日中パソコンの画面を見る仕事でした。
また女性ばかりの職場で、気の強いハッキリものを言う人が多く、そこでまた症状を強く感じるようになりました。パソコンの画面に集中したくても、視界に入る人の方にばかり意識がいってしまい、また昼休みに何人かで食事をする時、向かいの人の手の動きにとらわれたり、自分が発言したくても発言することによって、皆に注目されるのが恐くて、段々と自分の意見を言わなくなりました。
また人に話しかけられて、話そうとすると鼓動は早くなり、嫌な汗が出、頭は真っ白になり、自分でも、何を話してるのかわからなくなりました。そんな状況があまりにも辛く、なんとかしたい一心でインターネットで自分の症状を検索し、発見会の存在を知りました。そして2003年1月に初心者懇談会に参加し、会の説明のビデオを見せてもらい、ここならなんとかなるかもと、暗闇に光が射したような希望が湧いてきました。
またその会には、私と同じ症状で悩む人がいてて、話をし、今まで誰に話しても理解してもらえないと思ってたことが分ってもらえ、とても嬉しかったです。
その年の3月に初めて金曜夜間懇談会に参加し、暖かく和やかな雰囲気にとても癒されました。
また先輩方のいきいきとした表情に勇気付けられました。症状に関しては辛くても必要な事には手を出していくということを教えていただきました。
2003年8月に正式に発見会に入会し、翌年5月に大阪基準型学習会を受講しました。基準型学習会では、神経症の成り立ちや、性格特徴、行動の重要性を教えていただきました。そこでいかに自分は今まで間違った認識をしていたかに気づかされました。またその頃、同じ学習会や懇談会で一緒に勉強している仲間の短期間で良くなる様子を目の当たりにし、やればできるんだと勇気付けられたと共に、自分が何もしていなかったことに気づき恥ずかしくなりました。それまで懇談会に参加しても、行けば誰かが治してくれると他力本願的な考えで、自分で進んで何かをするということはなく、いつも受身の状態でした。学習会受講以降、世話役を積極的にこなし、行動を素早くする事で、それまで症状にばかり目が向いていた自分が、外に対してもきちんと反応できるようになっていきました。また落ち込んでも立ち直りが早くなり、感情が流れていくことを実感しました。
またそれまで半年程、薬を飲んでいましたが、学習会受講中思い切って止めました。止めてすぐは症状を強く感じる気がし不安になりましたが、万代理事の励ましのおかげで無事乗り越えることができました。また自転車も紹介してくださり、皆で一緒に出かけて自然を満喫し、また基礎体力の重要性を改めて感じました。
2005年10月には岡山合宿に参加させてもらい、神経症の原石磨きの大切さを教えてもらい、ありのまま、あるがままの自分で良いんだ、症状ひっくるめて自分なんだということを気づかせていただきました。また金曜夜間の掲示板で日記を書くことにより、素直に自分の気持ちを表現できるようになり以前よりも人の思惑を気にしなくなりました。また他の方の頑張りを拝見させていただくことで自分も頑張ろう、負けていられないと良い意味での相乗効果があるように思います。
最後に、神経症になった当時は、どうして自分が、または自分だけがと、神経症になった自分を呪いましたが、今は神経症になったおかげで、素敵な仲間に出会え、のほほんと過ごしていたかも知れない人生を、もっと真剣に、味わい深い人生が送れるような気がしています。万代理事、金曜夜間の皆さん、いつもありがとうございます。これからも宜しくおねがいします。

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■ yokoko  
 症状が起こった時期の自覚はなく、小学校低学年くらいのものごころついた時から既にそういった性格だったように思います。親にやや過保護に育てられたかもしれませんが、それが原因とは思えません。小学校〜今まで、細かい点で変化はあったかもしれませんが、そういった症状の根本はほぼ変わらず、ずっと悩み続けてきていて、友人も少なかったです。小学校・中学校の頃は、「こんな性格では周りと上手くやっていけない。なんとか前向きな性格に変えなくては。」と思い、協調性を養おうとサッカー部やバレーボール部に入って一応最後まで続けましたが、やる気があった訳ではないので、苦痛でしょうがありませんでした。小学校時代に担任の先生から、「気が小さいのは良くない」とか、同級生の女の子から「暗いよね」と言われて、すごく傷付いたりしました。
高校に入っても、やはり何か部活動をしなければと思い、それまでの経験から団体競技はやめて、個人でできるものにとして、弓道部に入り、やはり最後まで続きましたが、人間関係がしっくりいかず、あまり楽しくはありませんでした。
友人は少なかったですが、コツコツ一人で努力する性格が勉強に向いていたのか、勉強ばかりしていました。特に親から強要されたりしたことはなかったのですが、勉強だけが自分を主張できる唯一の場だったからかもしれません。「ガリ勉君」などとよく言われていました。要領が悪くて大学受験に失敗したのですが、浪人時代は勉強ばかりしていれば周りからは何も言われないので、ほとんど、人付き合いせずに勉強していました。勉強しているときは、人間関係に悩むことはなく非常に楽でした。
大学に入ると、時間に余裕が出てきて、気持ちが内向きになり、やはり元の悩む自分に戻ってしまいました。特に、テニスサークルなどに入って楽しんでいる典型的な大学生をキャンパスで見るたびに、「自分は何と強調性がなく、暗い性格なのだろう」と落ち込んでいました。ただ、やはりサークル活動位はした方が良いと思い、ギターサークルという地味目なサークルに入りました。人間関係はやはりしっくりきませんでしたが、それなりに友人ができ、今も連絡は取っているので、その点は良かったかなと思います。
結局、学生時代を通じて、私の理想である、@明るくて人とすぐ仲良くなれる、A面白い、自分像を達成しようとしますが、本来の自分にはないものであり達成不可能でした。それで、現実の自分と理想の自分のギャップに苦悩していたんだと思います。
また、周囲への劣等感から、自分の存在が人を不快にさせると思い込み、行動範囲を狭めてしまい、自分の本来の欲求である「人と仲良くしたい」ということが達成されず、なんとかしなければと常に思い悩んでいました。
学生時代にも終わりが来て、就職しなければならなくなりました。まず、現在の会社に入社するに当たって、非常に葛藤がありました。大学時代は、自分の考えとしては大学院へ進学して、将来は研究・開発関係の仕事をしたいと思っていましたが、経済的な理由から断念し、就職することになりました。その頃は既に景気が悪く求人数もあまり多くなく、あるとしても営業関係の仕事が中心でした。自分の対人緊張の性格からして営業の仕事は難しいとは思いましたが、反面、そういった自分の性格を荒療治で治していかないと社会の中で生きていけないという気持ちもあり、一念発起してなんとか今の会社に滑り込むことができました。しかし、入社してからも常に進学しなかった後悔を持ち続けて仕事をしていました。仕事自体は真面目に取り組んでいたと自分では思っていたのですが、周りから見れば、暗く近寄りがたく、また、仕事の成果自体も芳しくなかったと思います。私も同僚の人達の生き生きとした働き振りを羨ましく思うと同時に、自分にはできないなという諦めにも似た気持ちが心の片隅にありました。そういった私への、上司の態度は厳しいものでした。その上司は営業のたたき上げといったタイプの人で外向型タイプの人でした。「もっと人から好かれるようになっていろいろ教えてもらえるようにしなさい。」「人のせいにしないで、もっと素直になって自分の非を認めなさい。」など手厳しいですが、ありがたいアドバイスをいろいろいただきました。その人から見れば、私の対人緊張型性格はもどかしく、営業で食べていくのは難しいからそんなことを言ったのだと思います。
社会人2年目に入っても、営業として周囲に認められず、’02.5月頃から自分でスケジュールが自由に組めず、先輩と組になって行動するようになっていました。2年目の他の同期は一人立ちしているのが当り前なので、そんな自分を惨めに思いました。同期と道端で会うのが嫌で、よく避けていました。先輩が忙しくて同行ができない時は、一日中、会社の机にいました。特にやることもなく、自分の居場所がなく惨めでした。
結局、二年間、営業に在籍しました。情けないことですが、とにかく営業という仕事と職場の人間関係に適応できませんでした。もがいても、もがいても、一向に生活が向上せず、どうしたら良いのかわかりませんでした。ひどい時には、朝起きると、手足が痺れた感覚がし、会社の最寄駅に着くといつも吐き気がしてました。常に、社会に適合できない自分に劣等感を感じて、テレビを見ても、映画を見ても、何をしても楽しくなく、仕事のことが絶えず気になり、素直に楽しめませんでした。
仕事のある日は、早めに退社した時でも、家に帰って両親に自分の不安定な心を見せるのが嫌でブラブラ寄り道していました。漫画喫茶などに夜遅くまで行って、時間を潰し、両親が寝静まった頃に家に帰っていました。また、会社帰りには、色々気を使ってくれた先輩に飲みに連れていってもらうこともあり、深酒をしてはタクシーで帰る、終電で最寄駅を乗り越して仕方なくホテルに泊まる、など今考えれば、かなり不規則でだらしない生活を送っていました。
そんな自分が嫌でしょうがありませんでした。よく世間一般で「やってやれない仕事はない」とか「内向タイプは営業に向いている」といったことも聞きますが、ある部分では当てはまり、ある部分では当てはまってないと個人的には思います。あの時点の私自身は、会社に行くだけで精一杯でした。病院には行きませんでしたが、抑うつ状態に近かったかもしれません。
そういった苦しい営業時代の最中、神田の古本屋街をブラブラしている時に偶然、発見会関連の本を読み、深い共感を覚え、すぐに初心者懇談会に参加しました。初心者懇談会では、「森田式精神健康法」を紹介してもらい、何回も読み返しました。「森田式精神健康法」には、人と打ち解けられない悩みを持った人の例が書いてあって、自分にピタリと当てはまっていたので驚いたとともに嬉しかったことを覚えています。それまでは、楽しそうに日々暮らしている人と落ち込んでいる自分とを比べて、自分は特殊な人間で生きていてもあまり意味がないと思っていました。
その後は、集談会に欠かさず参加しました。集談会では、劣等感に悩んでいることを話しましたが、そういった悩みはそれまで親兄弟・友人など誰にも話したことがなく、自分の胸だけにしまっていました。悩みを気軽に言える場所ができたことで、自分の気持ちに、少しゆとりができたと思います。集談会の中では、人と比較されることがなく非常に楽でした。
それと同時に月に一回しか集談会がないことが残念でした。会社の人間関係の悩みにとらわれていて心は常に混乱していて、集談会のない週末は辛くて、森田関係の本ばかり読んでいました。通勤電車の中でも憂鬱な気分をなんとか立て直そうと、必死で読んでいたのを覚えています。もっと色々な集談会に行ってみても良かったかもしれません。
学習会にも参加し、学習会の同期生との心の交流は素晴らしく、私が今まで味わったことのないものでした。学習会での日記指導などを通して、今の惨めな自分は事実として認めて、小さなことでもできることをやるしかないという気持ちになりました。具体的には、売り上げ集計、手形の回収などです。惨めな気持ちを止むを得ず、受け止めて生活していました。学習会では、同期生のそれまでの辛い体験や学習会期間中の心境の変化などを聞き、共感でき学習会期間中は非常に心が温まりました。
ただ、悩みが、「現実的に実力不足で仕事が出来ない」というものであったので、森田の教えに従い、行動してもなかなか成果は出ず、根本的には劣等感が払拭されることはありませんでした。集談会に行くようになっても、社会に適応できていない自分が嫌でたまりませんでした。自分自身を受け入れる精神的な余裕はありませんでした。
’03.3月に大阪への転勤が決まると、営業で上手くいかなかった敗北感が一層強まりましたが、引継ぎ資料の作成、顧客へのお別れの挨拶などはなんとかやっていました。敗北感に打ちひしがれつつもなんとか最低限の仕事をしていたとは思いますが、社会に適応できない自分への敗北感が強すぎて、自分自身を褒めたり、受け入れたりは全くできませんでした。
実家にいて、会社で辛い時には、随分と親に愚痴を言って心配をかけました。今振り返ると、愚痴など言わなければ良かったと思いますが、その時はつい出てしまったのだと思います。
会社の方では、結局、上司とも話し合い、営業の仕事は向かない、ということで入社3年目、技術関係の仕事に移してもらい、大阪に転勤となりました。初めての関西、初めての一人暮らしということで、緊張しつつも楽しみでした。反面、営業職で失敗した自分を周りは社会に適応できないダメな人間と思っているのではないだろうかという不安もありましたが、日々、会社に行く中で徐々にそのような気持ちも、薄れていきました。「前の部署で失敗したけれど、そんなことより今の部署で頑張ろう。今後どうなるかなんて誰もわからないから今やれること・やりたいことをどんどんやろう」という気持ちになっていきました。営業部門での失敗の記憶が徐々に薄らいできたこともあったと思います。
私に与えられた技術テーマは既存の商売ではなく、新しい技術開発を一からやってみようというものでしたので、当初はそれほど忙しくもなかったため、仕事のプレッシャーも少なく、独身寮の仲間と難波に飲みに行ったりと、それまでに体験したことのないような楽しい時間を過ごすことができました。ただ、周りの誰もわからないテーマなので、手探りで進めざるを得ず、なかなか開発が進みませんでした。また、いつテーマを打ち切られるかわからない恐怖もあり、自分には技術的蓄積が残らないのではないかという気持ちもありました。ただ、自主性に任せて研究が進められましたので、それに安住してしまったのかもしれません。
ところが、開発職について3年目の昨年頃から、会社での資格も上がり、またテーマの成果が具体的に上がらないからでしょうか、周りのプレッシャーも厳しくなり、特に上司から厳しく叱られることも多くなりました。その度になんとか責任を逃れたいというマイナスの考えが起きてきて、逃げ腰で仕事も嫌々こなしてしまうという感覚に陥ってしまいました。やらなければいけないことが同時に頭に浮かび、混乱しながら仕事をしてしまい、効率が悪かったです。優先順位をつけ、なんとかやろうとしましたが、なかなかはかどらず、今でもそれは検討課題です。仕事のことを休日も考えてしまい、嫌な気分になることもたびたびでした。なんとか仕事をこなそうと平日は朝8時半〜夜11時位まで、休日も出勤したりなどして、挽回しようとしました。気分転換も必要だと思ったのですが、元来が無趣味でなかなか気分転換も出来ません。毎朝、憂鬱な気分で会社に行くことが辛いですが、休んだら社会的に終わりだと思い、今の所、休んでいません。
結局の所、どこへ行っても、上司に少し叱られると過剰に反応してしまい、「社会にうまく適応できていない自分はダメな人間だ」と短絡思考してしまい、自分自身を攻め、行動・考えが内向きになり、外向きの行動・考えをしなくなってしまいます。そして、「もう叱られたくない」という気持ちからあせってなんとか仕事をこなそうとするのですが、あせればあせるほど仕事の方向性がずれて検討違いとなってしまいます。上司と話すのを避けてしまい、たまに勇気を出して報告などをしても、ミスを指摘され叱られ、ますます萎縮してしまうということを繰り返しています。森田の言葉で言えば、気分本位になってしまい、目的本位を忘れがちです。精神的に不安定になると、そういった基本的な事もなかなか実行できないようです。ただ、営業時代よりは、仕事を任されている分、マシかなとは思いますが。
でも、これが現実の自分なんです。上手く立ち回りたい、でも上手くできない。これまで、小学校時代からずっと、「今のままの自分では生きていけない。変わらないといけない。」と思い、常に自分にないものを求め続けてきました。でも、何も変わらなかったのです。残念ながら、今の自分のままで生きていくしかありません。会社に行くのが精一杯の自分、仕事のことが常に頭を占め、不安で一杯の自分。でも、不安でもなんとか仕事をやろうとしている自分。理想であった、仕事をバリバリこなす自分、仕事・プライベートの両方をこなす自分というものは、どこにもいないし、求めても得られないのだなと思います。
こんな自分で社会の中で今後、生きていけるのか不安を感じています。なんとか5年間は会社に勤めて食べてこれましたので、これはまあ認めても良いでしょう。今後、辛くても不安な気持ちをかかえながら、会社に休まず行き、現実的に仕事に努力することが自分にできることですので、なんとかそれを続けていきたいと思います。仕事で周りから認めてもらえるようになりたいですが、少しずつしかできないので道のりは遠そうです。最近は周りからの評価を得る努力をすると共に、自分自身を厳しく評価しすぎず、行動できたことをなるべく自分自身で褒めるようにしています。それによって、幾分か行動しやすくはなっていると思います。行動して、周囲からも、自分からも否定されると、行動する意欲が非常に衰えてしまうことを今まで経験しましたので。もちろん、仕事の本来の目的を忘れずにコツコツと努力しますが。 仕事はそのような状況ですが、唯一の救いと言えるのが、関西に来て、結婚相手がみつかったことです。近々、入籍する予定です。これまで対人緊張・劣等感が強い自分は、一生、独身だと思っていました。ただ、半ばやけになりながら、色々、行動したことが実を結びました。彼女は、私の悩みも聞いてくれますし(相手の悩みももちろん聞きます)、発見会のことも理解してくれてます。今の所、私の一番の心の支え・やすらぎとなっています。あんまり愚痴が多いと、嫌がられる日が来るかもしれませんが、愚痴を言わないと辛いので、聞いてもらってます。こんな自分が結婚しても良いのか、もっと一人前になってからの方が良いのか悩みましたが、しばらくは一人前になれそうもないので、何かの縁だと思い、結婚することにしました。これまでの人生の中で、一番嬉しいことです。
森田理論を勉強して、おとなしくて真面目な性格をある程度認めてあげられるようになり、性格を変えようという無理な努力をしなくなり、対人緊張による影響が少なくなってきたと思います。今までどんな自己啓発本を読んでも、そこに書いている素晴らしいことは実行できたことはありませんでした。森田理論はそのままの自分を認めてあげることが大事であるというそれまで出会ったことのないアドバイスが書いてありました。それまでダメな自分を変えなくてはならないと思っていた考えを、森田理論によって随分変えることができたと思います。 大阪に来てからも集談会は、継続的に出席しています。4月からは代表幹事をしています。継続的に続いていることは、集談会と仕事だけです。今後も色々、落ち込んだりしながらも、集談会には粘り強く末永く参加していきたいです。

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■ sugiちゃん  
「はじめまして、西宮のsugiちゃんといいます。

「平成の森田先生」(manちゃん)が考えている森田の神髄をしっかりと吸収したくて書き込みました。集談会は、sadaちゃんが参加している西宮と山中先生の講話を聞くために三宮原著の会に参加しています。
 集談会に入ったのは、平成12年10月頃より家庭でのトラブル、仕事のストレスで不眠になり、そしてアルコールとタバコに逃げる生活が続きました。これではいけないと前向きに頑張るが、何かわからない焦りとイライラで頭が回転しないし胸が締め付けられる感じがする。!BR! 夜は1時頃に寝ても3時間程度で、目が覚めて眠れない。
 それでも、会社は休まずにぼーっとした頭で会社へ行っていました。!BR! そのうちに、何事にも興味が無くなり、人生がとてもむなしくなってきました。
 今まで何のために努力してきたのか?
 このまま、人生がむなしく過ぎ去ってしまうのか?
 その時は、この原因は、男の更年期障害ではないのかと思ったり、「うつ病」ではないかと思っていました。
 家内からは、心療内科へ行ってほしいと言われましたが、プライドがあるので心療内科へは、絶対に行かないと決めていました。
 そんな時に、インターネットでメンタルヘルス岡本財団の「心の健康セミナー」を見つけました。
 平成13年9月に「心の健康セミナー」に参加し、そこで、森田療法と生活の発見会を知りました。
 心療内科へは、行かないと決めていたので、森田療法に賭けてみることにしました。
 平成13年10月に発見会に入会し、すぐに初心者懇談会に参加しました。
 森田療法を詳しく知りたかったので、森田療法を勉強している西宮集談会に11月より参加しました。
 そこで、メンタルヘルスのmanちゃんに出会いました。
 それからは、manちゃんの助言と森田原著を読むことにより、一歩一歩生活が改善し、家庭のトラブルも少なくなってきました。
 仕事のストレスは、ありますが以前の様に深刻に悩まなくなりました。
 こんなsugちゃんですが、仲間に入れてください。よろしくお願いします。

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■ satopiyoちゃん  
私は昭和46年に三姉妹の次女として、兵庫県神戸市で生まれました。父は優しく、子供に甘い人でした。母は社交的で明るい性格ですが、気まぐれな面もあり、私はいつも母の顔色を伺いながら行動をしていました。一つ違いの妹の育児に追われていた母は、なるべく私に手を取られない様にしていた様です。オムツが早く取れる様にと、しょっちゅうお尻を叩かれたり、中耳炎で通院が必要になった時も、長期に渡り祖母に預けられたり、親に甘えたいけれど甘えられない、そんな幼少期でした。今でも、素直に親に甘えられないところは、この幼い頃からの事が影響しているのかもしれません。
 わがままで自由奔放な性格の姉と、無鉄砲でおてんばな妹に挟まれて育った私は、姉と妹が親に怒られたり、心配をかけているところを見ては、自分だけは親を困らせない様にと、自分を抑え、特に母の顔色を伺い、幼い頃から母の気に入る様な行動ばかりをとっていました。

 家の外では、とにかく恥ずかしがりやで、幼稚園での演劇やピアノの発表会など人前に出る事はとても苦手でした。小学生の頃、選ばれて嫌々なった学級委員も私にはかなり苦痛なことでした。一方、近所の友達の中ではリーダーシップをとってみんなを従える様な、自分の思い通りにしないと気がすまない性格も持ち合わせておりました。!BR!
 そんな私に、初めて人間関係の危機がおとずれたのは、中学2年生の時でした。中学1年の時から、登下校を共にしていた仲の良いAさんとクラス替えで離れ、Aさんは自分のクラスで仲の良い友達が出来、その内、Aさんとその友達と私の3人で登下校する様になりました。最初は楽しく過ごしていましたが、私にはわからないクラス内での話をされたり、仲の良い姿を見ている内に、「自分は要らない存在なのでは?」と、考える様になりました。それでも嫌われたくない一心で、言う事を聞いたり、機嫌を取ったり、もうそれこそ必死でした。

 今思えば、これが間違った方向にいくきっかけでした。Aさんの友達には「奴隷みたい」と言われたり、Aさんは私の目の前で「何でも言う事聞いてくれるんだし、うまく利用しないと!」と、他の人に言い触らしていました。それを聞いた時は、ショックでかなり落ち込みました。

 便利屋として扱われていた自分を惨めに思い、人間不信になりました。しかし、友達を失う勇気のない私は、文句も言わず、うやむやにその場をやり過ごしていました。やがて、私と同じクラブの友達も加わって登下校する様になり、その子のおかげでいつしか4人の関係が良くなり、その後の中学・高校生活はなんとか過ごす事が出来ました。傷つけられるのが怖い、だから、友に対する考え方が根本から変わった訳ではなかったのです。そんな内向的性格から、やがては深刻な強迫神経質症に陥ることは、当然のことでした。

 そんな頃、家庭はとても暗い状況でした。単身赴任をしている父は、週末になると泥酔状態で帰ってきては、母といつも言い争いになり、そんな二人の声が聞こえてくる度、私は自分の部屋で声を殺して泣いていました。姉は1人暮らしをするために家を出、妹も家を空ける事が多く、家族がバラバラな状態でした。私だけでも母を心配させない様にと、とにかくまじめにまじめにと過ごしていました。

 高校生活、最後の年に、突然、父が亡くなりました。お酒で体を悪くしていたのだと思います。私はずっと父を軽蔑していましたが、父の死は、これまでの人生で一番辛く悲しい出来事でした。後に、父がお酒に溺れた理由を聞き、父の人生って何だったのだろうか、父は幸せだったのだろうか、と考えると父が哀れで、何とも言えない悲しい気持ちになりました。そして、父とあまり良い関係でないまま別れてしまった母には、これまで以上に心配をかけない様にと思って母とじっと過ごしました。しかし、父の死を受け入れたくなかった私は、いつしか現実逃避の道を選んでいました。事実を認めることが怖かったのです。

 短大に入ってからは、バイト仲間と遊んでは帰宅時間が遅くなったり、未成年なのに興味本位で煙草やお酒に手を出したり、羽目を外す様になりました。それでも姉や妹に比べるとよほどましな方だと自分で納得していました。母からすると、今まで大きな問題がなかった私のこの行動がとても気に入らなかった様です。「あんたまで、そんな事をするの!」と、怒られたりもしましたが、反省するよりも母への苛立ちを感じました。逆に、何故これだけの事で怒られるのかと、姉や妹に比べ不公平だと思っていました。今では、当時一番辛い母に、追い討ちをかける様に心配をかけたこと、とても申し訳なく思っています。

 そんな歪んだ性格のまま、あまり良いとは言えない家族関係で過ごしてきましたが、あの平成7年の阪神大震災が、私の家族に対する思いを変えました。家は全壊し祖母は亡くなり、今後どうやって生きていこうかと、途方に暮れていきました。それでも親戚に助けられ、なんとか過ごしてこれました。ただ生きる為に、皆が一生懸命になり、バラバラだった家族もやっと一つになれた気がしました。私自身、家族の大切さやありがたさを、恥ずかしいながらも、この時初めて気づきました。こんな最悪の事態にならないと気付かないなんて、ほんとに情けない話です。近所の人や、被災した知らない人と助け合う事も、この時が初めてでした。悪夢の様な出来事でしたが、人間が一番大事にしなければいけない、生きるということが、自分なりにわかった出来事でした。!BR!
 その様な大変辛い事もありましたが、その2年後に結婚し、6年間勤めていた会社を退職し、平和な日々を送っておりました。生活にも慣れた1年後には派遣社員として新しい職場で働き始めたのですが、とうとう私は、この環境の変化によって神経質症に陥ってしまいました。

 その会社は、年配の女性1人と、後は男性という構成で、その年配の女性が厳しいために、私の前任者とその前の前任者は退職する羽目に至ったという事でした。それを聞かされた時は、目の前が真っ暗になりました。でも、なんとかその女性に気に入られようと必死でした。

 その様子は中学の時の私と同じです。その女性の言うこと全てに賛同したり、その女性が喜びそうなことばかりをするという、過剰な気の使い方をしていました。その間違った努力のお陰で、一応仲良くなりましたが、ある日、些細な事でその人を怒らせてしまい、無視される日が続きました。

 用事がある時は、よそよそしい敬語を使われたり、私が話しかけようと近づくと立ち去るという事が度々ありました。その時の私は、「今まで一生懸命尽くしてきたのに、何故こんな態度をとられないといけないの!」と、悲しい様な、腹立たしい様な気持ちになりました。

 それ以来、その女性が視界に入る事が気になり出し、だんだん他の人の思惑や存在も気になりはじめました。「見ない様にしているのに見える」と、いう感覚が異常に感じ、気が狂ってしまったと思い、近くの心療内科に駆け込みました。

 初めて自分の気持ちを打ち明けた安堵感と、処方された安定剤に、一時は「これで救われた!」と、思いましたが、薬が切れるとまた同じで苦しみが襲ってきました。これからずっと薬に頼って生きていくのかと思うと怖くなり、心療内科に行くことも薬を飲むことも1・2ヶ月でやめてしまいました。そして、会社もとうとう我慢できずに辞めてしまいました。

 逃げただけで、何も解決しませんでしたが、今までの自分をリセットして、よし次から頑張ろうという気持ちで、また、新しい仕事に就きました。けれど、自分をリセットする事は不可能で、この会社では、前の会社以上に、人の思惑が気になり、前に座っている人の顔が視界に入っただけで強い違和感を感じ、仕事に集中できず、発狂しそうな毎日でした。

 就業中、何度も何度もトイレへ駆け込み、気を落ち着かせていましたが、席へ戻ると同じで、私はとうとう気が狂ってしまったと思いました。通勤電車内では顔を上げられず、道で人とすれ違うのも辛く、家族と同じ部屋で顔を合わすのも苦しくなりました。

 そして追い討ちをかける様に、持病のアトピーが酷くなり、夜も眠れない痒みに襲われ、人相は酷くなり、外出することもかなり苦痛となってしまいました。気が狂った上に、顔も体も醜く、この世で一番、自分が不幸だと思っていました。家族や友達はいるのに、満たされず寂しい毎日で、一人になると泣いてばかりいました。結局その会社も半年で辞めてしまい、それからは家で引きこもっていきました。

 その後は、ただじっと家にいる毎日でした。でも、悩みから開放された訳ではありませんでした。社会との繋がりが無くなった私は、買物などで外出する時は、今まで以上に人に対して恐怖を感じていました。何もせず、じっと家にいることに罪悪感を感じてしまい、とてもとても辛い日々でした。私は一体どうしてしまったんだろう、この先どうなってしまうのだろう、何故こんな事になってしまったんだろう、もう昔みたいに戻れないんだろうかと、毎日毎日そんなことを考えていました。

 そんな時、なんとかこの苦しい状況から解放されたいと思う一心で、インターネットで検索していたところ、森田療法と出会いました。次の日には近くの図書館へ行き、森田の本を借りました。本を読むと、そこには私そのもののことが書かれてあり、目の前が明るくなった気がしました。そしてこの苦しい症状が欲望の裏返しからくるものだという事を知り、とても驚きました。
 「これだ!これしかない!」と、思い、本に載っていた発見会に問い合わせをし、初心者懇談会へ行きました。先輩は優しく、親身になって悩みを聞いて下さり、とても救われました。神経症が克服できるととても希望がわいてきました。

 近くにある集談会にも数回参加させて頂き、明るく元気な先輩方の姿を拝見し、「これで治る!」と確信しました。平成13年1月には生活の発見会に入会し、4月には基準型学習会を受講しました。学習では、「人間」に対する自分の考えが間違っていたことに気付かされました。
!BR! 一緒に受講していた同窓生も同じ様に悩み苦しんでこられたことを知り、自分一人が辛い訳ではないという事がわかりました。その頃、勤めていた会社でも、悩みは消えず、相変わらず上司との関係は良くありませんでしたが、講師の方から、続ける様にとアドバイスを頂き、なんとか続ける事ができました。

 その内、上司との関係も良くなってきました。生活の発見会の先輩から、「あなたが変わったから、上司も変わったんじゃないかな。」と言われました。考えてみると、以前は、上司の一言一言にビクビクし、注意されてもその内容が頭に入らなかったのですが、上司が怒っていようがその内容自体を聞こうと心がけた事により、仕事がスムーズにいく事が多くなった様に思います。あとは、笑顔が当初より増えた様に感じました。そして初めて派遣での仕事を契約満了で終了する事ができました。!BR!
 その後、基準型学習会の世話役や学習ルームの図書係をさせて頂いたり、嫌々ながらも仕事に行くことができ、要領悪いながらも家事をする事ができる様になった私は、このまますんなりと階段を上っていくものだと思っていましたが、「誰かにしてもらおう」、という他力本願的な甘い考えで集談会に参加していたため、そんなに簡単には克服へとはいきませんでした。

 現在も参加させて頂いている大阪金曜夜間懇談会では、活発に活動されてる先輩方の様になりたいと思いながらも、人前に出ることは自分には出来ない、と自分で大きな壁を作り上げ、いつも先輩の影に隠れ、自主的に行動を起こせませんでした。

 その内、私より後から入って来られた新しい方達が、次々に良くなっていかれる姿を見て、焦りだし、皆の情熱を見ては、「自分は冷めているし、素直じゃないから駄目だ!」と劣等感を抱き、だんだん、本来、自分が持っていたあの暗い闇に入っていってしまいました。

 けれど、どこかにやっぱり良くなりたいという気持ちがあり、しぶとく参加し続けていたところ、合宿学習会の話がありました。アトピーで酷くなった体で皆と入浴する事を考えると苦痛に思い、私は躊躇していましたが、M理事が背中を強く押して下さり、結局飛び込むことになりました。

 岡山県の人気のない奥深い山の中での合宿は、森田療法を知って、まだ間もない若い方達が、先輩の指導のもとで学習のテキストを事前に作成して、参加者全員に送られてきていました。二十代の若い方が、みな手作りで、そして慣れない司会をしている姿がとても新鮮に目に映りました。素直に「わからない!」と、あるがままでぶつかっていく必死の姿は、とても眩いばかりに輝いていました。私はこの若い人たちに、グイグイと引っ張られていきました。何、これは!、今までにない感動が体を走りました。

 若い人たちと、大先輩たちのやりとりを見て、その一言一言に熱い人間味を覚えました。それまで氷の様に冷え切っていた私の心を溶かしていったのです。人間らしさって、こういうことなんだと、とても感動しました。

 それと同時に、理解できていないことを知られるのを恐れて「わからない」と素直に言えずにいた私は、「あるがまま」が、ちっともわかってなかったということに気付かされました。そうか、解らないことはちっとも恥ずかしいことではなかったんだと、思い知らされました。

 学習の単元にも取り上げられた、「森田正馬全集第五巻」の序文の、「この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたい・との憧れに対する・やるせない苦悩である。」を、読み、私の数々の悩みの原点はこれだったのだと。

 目の敵にしてきていた劣等感や差別感が、実はこの、「この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたい・との憧れに対する・やるせない苦悩である。」と、いうことが解り、かえってこれまで憎しみの対象であった、劣等感や差別感が無性に可哀想に思われたものです。

 私は一番大切なものを忘れかけていました。目の敵どころか、なんとこれまで私の身を守ってくれていたものだったとは……。目から鱗とはまさにこのことでした。私の心を完全に目覚めさせてくれました。

 幼い頃から苦しんできた、アトピーのせいにして、この合宿に参加していなければ、これらを経験する事なく、このままずっと闇の中に居続けたかもしれません。症状なんてどうでも良い、神経質者として・人間としてどう生きるか、そんな大切なことを教えていただき、私にとってこの合宿は、大切な宝物になりました。

 これまでの自分の良いことも悪いことも過不足なく正しく自覚するとともに、大いに反省する機会にもなりました。たった一度しかない人生を、このままボーっとなんて生きておられません!生活の発見会に入会して5年にして、ようやく掴んだ森田先生の教えを今度こそ離しません!

 岡山の合宿も素晴らしいものでしたが、私の心の支えになったものは、毎日、金曜夜間の皆さんとネットで会えたことです。徐々に徐々に私の凍り付いていた心を温めていただいていたのです。皆さんから毎日勇気づけられていきました。

 何よりものことは、自分を表現することが苦手だった引きこもりがちの私が、少しずつ言葉にして表現できる様になり、それが爽快にさえ感じる様になっていきました。だんだんと、月に一度の懇談会が待ち遠しくて、皆さんとお会いしたくて、いてもたってもおられない気持ちになりました。

 H支部委員の愛用のマウンテンバイクを分けていただき、自然も満喫しました。額から流れる汗は、とても清々しいものでした。無邪気な子供に帰ったようでもありました。ひねくれていた私がやっと本当の自分を取り戻せたのです。生きているという実感と、なんと素晴らしい仲間たちとの出会いなのでしょう。

 それからというものは、目に映るものが、鮮やかでハッキリしてきた様に思います。今までは、事実から目を背けてきたため、いつも靄がかかった状態だったようです。理屈を言い張り、その靄をふりほどこうと躍起だったことが解りました。これからは、森田先生の教えを素直に実践していきたいと思います。

 まだまだ体験不足です。しかし、もう、これまでのような解らないことを物知り顔をする、後ろめたさはないので、いつでも体験不足ですと、少女のように胸を張って言えます。見たまま、聞いたまま、その事実を見据え、欲望に向かって前進していきたいと思います。

 最後に、こんな私に手を差し伸べ、暖かく見守って下さったM理事をはじめ、金曜夜間懇談会の皆さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。まだまだスタート地点に立ったばかりですが、ここまでこれましたのも、本当に皆さんのおかげです。決して一人では無理なことでした。人とのご縁がこんなに素晴らしいものだと、今頃になってわかりました。こんな私ですが、これからもどうぞ宜しくお願い致します。

 克服体験記と呼ぶには、ほど遠いものですが、同じ苦しみを経験された方々に少しでもお役に立てれば幸いです。

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■ ebiちゃん  
 森田」を知ったのは、昭和63年でした。
 職場での配置転換をきっかけに、悩むようになり、多くの本を読みました。そんな中で、長谷川洋三先生の「森田式精神健康法」を読み、「森田しかない」と思いました。 その時、僕は「森田療法」に生涯かかわるような、気持ちがしたことを忘れることはできません。当時、集談会には参加せず、悩んだり、苦しんだりすると森田の本を読んでいました。
 平成11年2月、自分一人では、やはり解決せず、金曜夜間懇談会に参加しました。mandyさん、hayaさんとの出会いがありました。とても親切にしていただきました。 平成11年4月からの基準型学習会に参加しました。その時の「総括」です。

 @神経質症のもとになった人間性に対する誤った認識はどこにあったのか。
 世の中で自分が一番苦しみを背負わされ、不幸であり自分が一番悩んでいると思っていた。他人の視線・思惑が気になり苦しんだ。

 A人間性に対する誤った認識から、どのように努力方向を誤ったか。
  自分の症状・悩みのことばかり考え、自分の殻に閉じこもってしまい、他人とのつきあいを避け、自己中心的になっていった。身内、友人に、愚痴を言ってばかりで家庭は暗くなり、友人とは疎遠となった。完全主義に陥り仕事が前に進まなくなった。今日もダメであったと自分を責め絶望し、後悔し、劣等感も強くなり、悪循環となった。

 B3ヶ月間で、行動の変わった点について
  後向きに考え行動していたのが、徐々にではあるが前向きに考え行動するようになった。

 C3ヶ月間で、認識の変わった点について
  日常茶飯事を大事にし、規則正しい生活をする。地道に努力して、経験を積み、人間的に成長することが大事である。

 D本来の欲望は何か、目的はどこにあるのか
  ・仕事で、人からも社会からも認められたい
  ・夫婦仲を良くするよう努めたい
  ・病気をせずに心身ともに健康でいたい

 E目的達成のための当面の実践目標は何か、その目標達成のための実践課題は何か
 ・茶碗洗い、風呂掃除、トイレ掃除、ふき掃除
 ・禁煙
 ・自分から挨拶する
 ・仕事の勉強を毎日1時間程する
 ・休日には、家族との時間を持つ
 ・仕事上では段取りを大事にする
 ・自分のことよりまず他人のことを考える

 学習会以降、集談会活動を通じ、実践していましたが、頭ではわかっているのですが、何か足りない感じがしていました。 そんな折、平成15年6月、mandyさんに「自転車=ロードレーサー」を勧められ、休日には遠乗りも付き合っていただき、身体を鍛えはじめました。また、自転車で通勤することを始めました。自転車道 の真っ直ぐな道を見て、「これで、よくなる」と確信しました。
 好天の日、雨の日、風の日、そんな中で、ロードを走らせ、汗をかき 自分の体内の感覚が戻り、感情も流れるようになりました。こうして、基礎体力がついてくると、実践もうまくいくようになりました。
 「森田」の理論も大事ですが、自転車で汗をかき、体力がついて生活を見直すことが大きかったように思います。mandyさんが言っておられた、神経症を治すにはまず、体力からということを身を持って学びました。ほんとうに、ありがとうございました。

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■ sadaちゃん  
私は現在33歳、兵庫県芦屋市在住で、同い年の妻と3歳10ヶ月の娘の3人家族です。職業は営業職、発見会入会は2005年5月です。主な症状は排尿困難、対人恐怖(雑談恐怖、電話恐怖、会食恐怖など)、そのほか人と親密になるのが怖いなどがあります。 
 排尿困難は中学1年生の時のある出来事がきっかけですので約20年近く症状に苦しんできました。対人恐怖は排尿困難が起こってからしばらくしてから自覚しだしましたが、社会人となってから症状が顕在化するなど特にひどくなり、抑うつ感が強くなりました。
 今日は、私の生い立ちから、排尿困難のきっかけと対人恐怖症になるまで、そして森田療法に出会うまでと森田療法に出会ってからなどを発表したいと思います。

「生い立ち」
 
 私は両親と3歳上の姉の4人家族、その長男末っ子として育てられました。父は言葉数が少なく寡黙な人で、毎日の帰宅は遅く、週末はテレビを見てごろごろしているといった典型的な会社人間、母はどちらかというとせっかちな性格で、すぐスネル父とすぐ癇癪を起こす母との会話はいつも成立せず、子供心に映る両親はお世辞にも仲の良い夫婦には見えませんでした。家の主導権は母が持ち、子育てをはじめ家庭の事はほとんど母が決めていたので、父は自分の知らないところで物事が進むとのけ者にされたとすぐに僻み、機嫌が悪い日が続くこともしばしばありました。ただ父も長男ということで何かと家系にはうるさく、特に親戚付き合いや、祖父の出身地の人たちが集まる県人会の集まりにはうるさかったのですが、その半面私たち家族との交流は少なく、家族旅行はもちろん、家族で出掛けた思い出と言えばお墓参りしか思いつかない私たち家族は、外面(そとづら)だけがよい父を疎ましく思いました。また、父は酔っ払った時には饒舌になり、その時だけ家族に機嫌よく接してくるのも、父親に対して猜疑心を持った理由の一つだと思います。

 ある面では末っ子という事で比較的甘やかされて育てられた私は、文字通りの内弁慶で、野菜類は一切食べない、おもちゃも買ってもらわないと決して泣き止まないと家族にはわがままと尽くし、その半面自分でも嫌になるくらいの泣き虫で、学校でも近所でもよく友人に泣かされて家に帰ってきました。人見知りが激しく、引っ込み思案で人の輪に入っていく事も苦手、スポーツも勉強も特に得意ということもなく、クラスでもあまり目立たなかった存在だったと思います。今から思うと吃音、赤面恐怖があり、国語の授業の本読みや作文の発表などを極端に嫌い、どもったり顔が赤くなったのを指摘され、みんなにリンゴ病だなどとバカされたこともよくありました。

「排尿困難のきっかけと症状の固着」

頃は中学一年生の時、休み時間に席が近くの男女数名の友人たちと雑談をしていた時の事です。その中の一人の日頃からつまらないことを言ってくる、私の席のひとつ前に座っていた友人が突然、「大城、お前のチンチンお前の顔と同じでコロコロまん丸なんやろ。今度小便行った時に絶対に見たんねん」、と言い出しました。突然の事で私の頭の中は真っ白に、唖然としてしまい何も言い返せませんでした。周りを見渡すと、女の子たちはどう反応したらいいか戸惑っている様子で、時折お互いに目で会話をしているみたいに見えて、それがまた私をパニックに追い込んでいきました。今でこそ下ネタなんて社交辞令のようなものですが、その頃の私にとって女性がいる場所でそんな話をするなんて夢にも思ったことはなく、もうどう対処したらいいかわからず、私はただただ、その時間、空間は現実ではない、これは実は空想、夢なんだ、夢なら早く覚めてくれと祈り続けました。
それ以来私はトイレに行くことに緊張感を持つようになりました。
 そんなある日、その頃よく一緒に遊んでいた友人達とトイレに行った時、そのうちのひとりの友人に、小便が出ずオドオドしている私を指摘され、ますます症状が悪化しました。
 チンチンを見た、見られたというよりはむしろ、男同士なのに、ましてや男なのにチンチンを見られる事を恐れる、小便ができない、というなんて小さい事を悩んでいる私を、その友人はなんて男らしくない、なんて気の小さい男なんだ、と思っているのではないかと思えば思うほどいたたまれない気持ちになりました。
 そしてそれからというもの、そんな自分を頭がおかしくなってしまったと思い込み、誰にも相談できないままなんとか自分だけで排尿困難を解決しようしたが上手くいかず、焦れば焦るほど症状は酷くなっていきました。次第にその友人以外の誰もが、私の頭がおかしくなってしまった事を見抜くのではないかと思えば思うほどに緊張感は増していき、完全にトイレで用が足せなくなるまでそう時間はかかりませんでした。
 無意味な努力は敗北感になり、無力感は劣等感に変わり、いつしか友達に言い知れない引け目を感じるようになった私は、次第に友人たちと距離をとるようになっていきました。

 「排尿困難から対人恐怖症へ」

高校に入学して症状は益々悪化していきました。初めは排尿困難という、トイレだけでの視線恐怖症であったはずが、それがトイレ以外、日常生活全般に対象領域が拡大していき、そしていつしかその視線恐怖は、対人恐怖症へと変化していきました。対人恐怖症は初対面という状況下では極めて顕著にその症状が現れ、高校生活という新しい環境で私は早々とクラスで孤立した存在となりました。
 それでもなんとかみんなと仲良くなりたいと思った私は、排尿困難を克服する事がみんなと友達になれる唯一の方法、友達になってもらえる許可証がもらえるような気がして、ガムシャラに便器の前に立ち続けました。でも毎回その努力も空しく結果は惨敗に終わり、敗北感だけが積もっていき、生も根も尽きたある時を境に私は便器の前に立つのを止めました。
高校2年の時、相変わらずクラスに、特に男子の集団に馴染めなかった私は、この頃初めて女の子と付き合い始めました。男性にとって女性を幸せにするのが人生で一番大事だと、そしてそれが一人前になる事、大人になる為のスキルであると信じ込んでいました。  
休日はもちろん、学校の休み時間、下校時はいつも一緒にその彼女と過ごし、必然的に男友達と一緒にいる時間は少なくなり、益々疎遠になっていきました。
 そしてある時、クラスで野球チームを作るという計画が持ち上がったらしかったけれど当然私はその事を全然知らなくて、ある休み時間に教室に入った瞬間、クラスメイトのみんなが揃いの帽子を作って盛り上がっているのを目の当たりにして、私は教室を飛び出して行った事がありました。その頃から関係念慮が酷くなりました。

 大学に入学しても排尿困難は相変わらずでしたが、劣等感は少し落ち着いていきました。プライベートではバイトを始め、大学ではサークルに入り、日々のサークルの活動や文化祭、合宿と参加し、同学年や先輩たちと親しくなっていきました。ある時は下宿をしている友達の家に泊まり、夜通し飲み明かしたりして、今までの辛い経験が嘘のように思えてきました。そしてそんな頃、彼らと本当の友達、つまり「親友」になりたいと思うようになりました。あらたまって「親友になって下さい」とは拒否された時の事を想像するととてもじゃないけど言えず、「今度こそ排尿困難を克服するんだ」と人知れず自分の中で課題を挙げました。人に愛して欲しいのなら、まず自分から相手を愛さなければならない。人に信用して欲しいのなら、まず自分から人を信用しなければならない。そう思い込んだ私は積極的に今まで避けてきたトイレに行くようにして、自分を追い込んでいきました。 
 しかし、いくら頑張っても小便は出ませんでした。本当に親友になりたいのなら、本当に彼らを信用しているのならきっと排尿困難なんて克服できるはずだと、自分で自分を罵り、責め続けました。心の友が欲しいと言いながら本当は私自身が誰も信用していない、そんな裏切りの感覚が頭にこびり付き、親密になろうとすればするほど、自分の偽善者的な部分が私を苦しめ、いつしか人と親しくなること、いや親しくなろうとする事すら怖くなっていきました。
その頃からまた劣等感が大きくなり、その反動で虚勢を張り、「誰よりも一人前の男になってやる」と漠然とした目標を挙げ、突然サークルを辞め、大学を休学し、1年間海外に行ったりしましたが、そんな他力本願の願いは当然叶わず、復学後は益々劣等感が強くなっていました。以前のサークル仲間からは「みんなに迷惑をかけて行ったくせに、お前は何も変っていない」と白い目で見られ、休学前のクラスメイトと復学後のクラスメイトのどちらとも仲良くなれませんでした。帰国後は視線恐怖が悪化し、醜態恐怖として、人前でアクビが出来ないなどの症状が出てきました。

「社会人となって」

排尿困難という症状を持ちながらも、負けん気だけで社会人になったような私は、会社に入った1・2年間くらいは新米という元気さだけを頼りになんとか営業職をこなしていました。しかしやがて責任ある仕事を任されるようになり、そのプレッシャーから取引先へのアポイントや訪問、仕入れ先、取引先との間に入っての折衝などが怖くなっていき、精神的に追い詰められた私は仕事全般が嫌になっていきました。ただそういう事は多かれ少なかれ誰にでも、ましてや営業職なのだからスランプなんて当たり前だと自分を納得させ、書店でビジネス本、自己啓発の本を思いつくまま買い漁り、「気を大きく持って」「やればできる」と言葉に触発され自己改造に挑戦してみたり、マインドコントロール、読心術などと書かれた本を読んでは相手を操ってみようとしたりして、暫くしてまたしんどくなってきたら今度は別の本で試してみる、という付け焼刃的な状態を続け、なんとか生活をしていました。

会社に入って3年目で結婚をし、その2年後にマンションを購入しました。その数カ後に妻の妊娠が判明、妻はツワリが酷く、体調を崩し数ヶ月後に彼女の勤務していた会社を退職しました。私はマンション購入と収入半減のプレッシャーと、会社の人事的なの問題でその頃特に仕事が忙しく、時間的、精神的に妻とすれ違う日々が続きました。そんなある日、ツワリが落ち着いたらしい妻は念願であったイヌを気晴らしに飼いたいと言い出し、私は妻のストレスが少しでも軽減できればと思いイヌを飼うことに賛成をしました。

早速イヌを購入し、暫くは子犬の世話で二人楽しい日が続きましたが、その数カ月後に子供が生まれ事態は悪化しました。慣れない子育てに私たち二人のストレスは溜まる一方で、その上にイヌは子供に嫉妬をし、躾けたオシッコやウンチの排泄規則を私たちの気を引こうとして守らなくなり、逆にその事で怒られてイヌ用のケージに入れられたりして、益々私たちから疎遠にされるという日が続きました。次第にイヌのストレスは家の破壊行動に転移し、新築で購入したマンションの柱や壁、椅子などの角という角がボロボロにされ、特注のカーテンが破られ、床の穴が毎日増え、それに比例して妻のストレスも増加していきました。
そしてとうとうイヌがおかしくなりました。電話のベルやインタフォンの音、マンションの外を走るトラックの音など、何か突然の音に反応すると大声で吠えまくり、目は虚ろになり、ハァハァと息をはきながら舌を出し、壁やドアを舐めてよだれでぐちゃぐちゃにするようになりました。明らかに今までの気を引く行為とは違い、怒っても効果がなく、力ずくで止めようものなら物凄い形相で噛み付いてきて、手に負えなくなりました。精神科も併設している動物病院に連れて行くと、うつ病と診断され、毎回数万円を出し、定期的にカウンセリングを受け、精神安定剤を貰うようになりました。また、イヌの気質からしつけの再教育も重要であるというアドバイスを受け、イヌのしつけ教室にも行き、通ったり一定期間預けたりしながら総額数十万円を注ぎ込みました。
イヌの問題行動が小康状態を続ける中、子供は順調に成長し、はいはいから掴まり立ち、そしてよちよち歩き出し、益々手がかかるようになりました。イヌのうつ病が回復するのが先か、妻がストレスで倒れるのが先かという状況下で私たちはイヌを手放す決心し、イヌを購入したブリーダーに引き取ってもらえないかとお願いをしたが受け入れてもらえず、結局保健所に持ち込む勇気のない私たちは、イヌを飼い続けなければならないという条件の中、せっかく買った新築のマンションを売却し、妻の実家の近所に中古マンションを購入して、何かあった時は妻の両親に妻とイヌの世話をしてもらうという選択枝を選びました。
毎週末にオープンハウスをする為に、その度に子供とイヌが泣き叫ぶ中家中を綺麗に掃除し、オープンハウスの間は外でなんとか時間を潰す、いう日々が2・3ヶ月続きました。購入価格よりも2割も3割も安く価格を値下げしてもなかなか買い手が見つからず、転居先の中古のマンションを購入したとしても結局今よりも借金をしなければいけない状況にもなり、私たちは精神的にも肉体的にも追い込まれていきました。そして妻は持病である腎臓を悪化させ、1カ月入院するという事態になり、その間子供は妻の実家に預けられ、私がイヌの面倒を見るということになりました。
妻が退院をし、暫くは安静が必要という事でマンションの売却計画を中断させ、解決の糸口が見つからないまま、私たちの生活が再開されました。
そんなある日の事です。
私は仕事から疲れて帰宅し、玄関の鍵を開けるといつもよりも激しくイヌがハァハァとよだれを垂らしながら家中を徘徊し、リビングでは子供が子供用サークルの中で泣き叫び、その傍では妻がテーブルでふさぎ込んでいるのが見えました。
「私が必死で築いてきた、守ってきた家庭って一体なんだったんだろう。」
その瞬間私は、言い知れぬ不安感、恐怖感に襲われました。それからなんとか家の中に入り、イヌをゲージに入れ、子供を抱きかかえ、私は泣きながら妻に告げました。
「もうやってられない」「とりあえずイヌを処分する」と。
妻はあくまでもイヌとの暮らしに執着しましたが、私はただただこれからの生活が見えなくて、とにかく何もかもが怖いと訴えました。イヌに執着する妻を見て、夫とイヌとどちらが大事なのかもわからない、そんな彼女を軽蔑しました。
 その後イヌは運良く引き受け手が見つかり手放す事が出来ましたが、ただ私は種々精神的なショックから立ち直れず、世帯主として自分の家庭を守れなかった自分、家庭を放棄しようとした自分を責め、またあるところでは妻に対して良い母、良い妻になりえなかった彼女を心のどこかで責め続けました。

「(森田療法以外の)自助グループへの参加」

 自己啓発の本から派生して、その頃心理学や精神分析学に興味があった私は、書店でたまたま見つけた「アダルトチルドレン(AC)」関係の本に目を引かれ、「生き辛さを感じる」「良い子で育ってきた」「自分に自信がない」「両親との確執がある」「夫婦関係が供依存関係である」・・・など、読み進めていくうちに自分にぴったりだと思い、それからACの自助グループに参加し出しました。!BR!私のこの「自信のなさ」は、私の両親が私を必要以上に甘やかし、本当に愛情が必要な時には愛情をくれなかったからだ、彼らの歪んだ愛情は、愛情という名前を借りた暴力だったんだ、と思い込み、必死で過去のトラウマを探し続けました。
 自助グループに参加する度に、過去にあんなことをされた、こんなことをされた、あんかことを言った、こんなことを言われたなどと告白をし、実際に自分はその当時、彼らにどうして欲しかったんだと訴えました。

 私の原家族に対する、特に父親に対する憎しみのような気持ちは、特に自分に子供ができてこの頃に増長されていたと思います。また、私が指摘する父親との確執は、父親に入院歴が少なからず影響していると思っています。
例えば、私が中学1年生の時に父は「くも膜下出血」という病気で倒れて半年ほど入院をしました。その病気は亡くなる確率が高く、治っても後遺症が残ると言われ、子供心にすごくショックだったのを覚えています。「くも膜下出血」とは、血管が細くなり血の流れが悪くなって、脳に血の塊ができてそれが突然破裂する病気だそうで、その原因は生活習慣の不摂生が原因で、父の場合は特に酒とタバコが主な要因だと母から聞かされました。そういえば、その頃の父はタバコを手放したことがなく、お酒を毎日飲んで帰ってきていました。そんな父を見て母は、ストレスを発散する勇気がなく、酒とタバコに逃げ込んだ気の弱い男だと姉と私に語りました。また、父が日頃頼りにしていた親戚、親類は、心配はすれども、決して看病などはしない、ほとんど助けにならない事がわかり、母も姉も私もますます親類からは疎遠になっていきました。
2度目は私が高校2年生の時で、今度は心筋梗塞でした。母と一緒に付き添った私は、この時初めて救急車に乗りました。病院に着くと緊急処置が施され、診察台に乗せられた父の衣服を、白衣を着た医師が大型のハサミでザクザクと切り裂きました。そしてテレビ番組でしか見たことのないような電気ショックの機械が運ばれてきたと思うやいなや、父の胸の辺りにその接触部分を当てているのが見えました。その途端「ドンッ」という音と共に、父の体は20〰30センチほど飛び上がり、それが4〰5回続いた時に初めて私は父が本当に死ぬかもしれない現実に気付きました。
私が社会人になるまでに父は後2回ほど彼は入院しました。一つは、いわゆる「ノックアウト強盗」というものにあい、近くの病院に搬送されたというものです。医師に止められていた酒を家族に隠れてたびたび飲んでいたらしく、自転車で帰宅途中に襲われたそうです。警察の方から夜中電話がかかってきて、迎えにくるように言われて発覚しました。搬送先の病院に行くと、泥酔し、バツが悪そうにしている父がいました。父はしばらくその病院に入院していたように思います。軽蔑とはきっとこういうことをいうのだと感じたのを覚えています。
入退院を繰り返し、通常の勤務が体力的、精神的にきつくなった父は会社を辞めました。バブル絶頂期であり、まだ現在ほど「リストラ」というものが世間に知れ渡っていない頃のいわゆる解雇でした。手に職を持っていない父にとってはその後紆余曲折はありましたが、現在も勤務しているマンションの管理員という職につきました。
家族にも、会社にも見放され、父の人生っていったいなんだったんだろうとつくづく考えた時期でした。
大学生のころ休学を両親に相談した時の事です。母は「どうして4年間で卒業できないんだ。どうして親にそんなに苦労をかけるんだ」と私を責めました。父は当初いつものように何も言いませんでしたが、母に私への説得を促されたらしい父は私と話をしようとしましたが、私は思わず「あなたのようになりたくない。あなたのような人生を歩みたくない」と叫び、反対に彼に詰め寄りました。自分でも驚くような言葉でした。父は言葉にならない言葉を発し、私の部屋から姿を消しました。

 ACの自助グループに参加をして数カ月して、司会や世話役もするようになった時にふと、ある言い知れぬ苛立ちを感じました。よくよく考えた結果、私は無理をして仲間に共感しようとしている、逆に言えば、私はACの仲間に共感できないと思うようになっていました。
 参加している仲間の殆どが過去の事を嘆くばかりで、現実の解決方法を提示しようとしない事に苛立ちを感じ、特に無職の仲間に対しては、結局は親に依存しながら生活をしている現状を棚に上げて話をしている事に憤りすら感じました。
また、その頃から私の親に対する考え方も変わっていきました。ACでは、親を憎み、トラウマを探し、それを穴埋めして、最後に親を許すという作業があるのですが、私は無理をして親を憎もう憎もうと努力をし、そして無理をして親を許そう許そうをしている自分に気づきました。無理に憎まず、無理に許さず、ただ怒っている自分がここにいるということ、ただそれだけ。私は親を憎むのに疲れたのです。

「森田療法に出会うまで」

それからACの自助グループとは段々と疎遠になっていき、また独学で本を読み始めました。その頃はただひたすら現実、事実が知りたくて、手始めに思いつくままに岩波や講談社などの新書を読みました。私の知らない周りでいったい何が起こっているのか知りたくて、世界史、日本史、経済学、社会学、社会行動学、文化人類学など、全体的には社会全体の、人間性と社会性、人と人との繋がり方とその歴史をその当時知りたかったのだと思います。!BR!そしてその時出会ったのが、「対人恐怖(内沼幸雄・講談社岩波新書)」と「私は森田療法に救われた(岡本常男・ごま書房)」という本でした。「対人恐怖(内沼幸雄)」の方はまさに「排尿困難」についての説明がなされており、目から鱗が落ちる気分で、自分だけの悩みではないと発見した瞬間でした。「私は森田療法に救われた」は「対人恐怖(内沼幸雄)」の中に森田療法についての記載があり、それから興味を持って読み進めていくうちにすっと頭に入っていく感覚で、すごくフィット感があったのを覚えています。

それから森田関係の本を数冊読み、自分がずっと生き辛いと思ってきた本当の理由は、私の神経質な素質が基礎になっているのではと思い始めました。
そして2005年5月にメンタルヘルス岡本記念財団の図書館を訪れ、そこで初めて万代さんと出会いました。その1週間後、当時は知らなかったのですが、今では西宮集談会で同じ仲間として活躍されている大西先生のカウンセリングを受け、5月下旬にあった大阪土曜夜間の初心者懇談会、6月初旬に初めて西宮夜間集談会に続けて参加しました。

「森田療法に出会って」
集談会に参加するようになり少しして、万代さんから「岡山合宿」の案内を頂き、飛びつくように参加をお願いしました。森田初心者の私にとっては、森田の仲間を作るのは急務であり、今後の為にこの機会に顔見知りをたくさん作れば、勉強もはかどるだろうというくらいにしか当初岡山合宿を捉えていませんでした。しかし、合宿で行われる学集会のの準備を金曜夜間集談会の掲示板などでするにつれ、予想以上に他の参加者の意気込みが伝わってきて、気後れする気持ちで当日を迎えました。案の定腰が引けた状態で合宿に突入しましたが、参加者全員の熱い思いに後押しされ、いつの間にか合宿に没頭していました。なによりも普段の集談会とは違う雰囲気の学習会は、その度に新しい感動がありました。特に20歳代の彼彼女達が司会をし、その彼らの意気込みに引き込まれ、結果的に充実した時間を過ごしました。
 「神経質は取り除くものではなく、むしろ磨くもの。」
今回の合宿のテーマは合宿中ずっと私の胸の奥で鳴り響きました。
また、森田宇宙理論を垣間見れたのも大きかったと思います。
森田の宇宙では、喜びも感情も、悲しみの感情も、全てを包み込むことができるということ、そして、神経質の星はしがみ付くと輝かず、むしろ自由に宙に浮かせておかば、宇宙の彼方へ飛んで行き、一段と光り輝き出すということを教わりました。
にわか仕込みに森田の理論を学習した私は、「とらわれ」「はからい」「あるがまま」を、
「とらわれ」て、「はからう」から「あるがまま」でいることができないのだと、「とらられ」「はからう」事を悪者扱いしていましたが、「とらわれ」「はからい」「あるがまま」その全てを、全ての感情を全肯定することが、本当の森田の世界であると学びました。

私はこれまで生きてきた中で、つくづく生きづらさを感じ、この生きづらさはいったい何なのだろうと思って生きてきました。周りの友達は楽しそうなのに、なぜか自分自分だけがこんなにも苦しいんだと人生を恨んでいました。特に毎日が楽しいわけでも、これから楽しくなる当てもなく、魑魅魍魎としたこの世の中をただ苦しながら生き抜き、そして死んでいくだけ。そんな世の中に、私は誰に生んで欲しいと頼んだわけもなく、両親を、そして神をずっと恨んで生きてきました。

ただこれまでに森田を勉強してきて気付いた事は、私は、小胆の、それでも負けん気は強い、ただの小さな森田神経質者の、そのひとりだったいうことです。生まれる事に不条理はあるかもしれないけれど、この世に平等なのはむしろ死ぬという事。むしろどういう風に生きて、どういう風に死ぬかが重要であるとわかってきました。森田神経質だからこそ悩み、一生をただで終わりたくない、偉くなりたい、真人間になりたいと憧れるからこそ苦悩するということ。それをこの合宿で認めたことによって初めて、現在この場にいる自分が報われた気がして、そして同時に、今まで悩み生きてきた過去の自分に感謝することができました。
それまでは、気が小さく、くだらない事にいちいち傷つき、心配性であった自分のそんな性格を忌み嫌い、なんとか改善克服しようとしてきましたが、自分が森田神経質だからこそ、いちいち悩んできたからこそ今まで生きてこられたんだと思えました。
日々の生活に打ちのめされ、どこかに逃げ込もうとしたり、その苦しさを抑圧し、押さえつけようとしても、なぜか歯を食いしばって踏ん張ろうと頑張っている自分がいる。それは、私の心の中には私にはどうすることも出来ない生への執着、「生の欲望」と「死の恐怖」が大きく横たわり、その溶鉱炉は絶えず燃え盛っていること。そしてそれがこれまでも、そしてこれからも、私を突き動かしている原動力となっていくということ。そんなことがおぼろげに分かってきました。
私が追い求めていた人生はこれからも、バラ色の人生でも、金色の人生でもない、ごくありふれた「スイミツトウ」のような人生かもしれない、それでも私は5尺1寸であるなら、5尺1寸なりの分相応の生活の中で、神経質を磨いて、気になることをいちいち気にしながら日々を過ごしていく事が、実は幸福なんじゃないかと、そんな心の準備があの岡山合宿でできたような気がします。
両親や神様に、私がこの世に生まれてきたことを感謝するのはまだできないけれど、「努力即幸福」「幸福即努力」そんな努力三昧の中で何かを掴むことができたら、いつかは感謝ができそうな気がします。

ロードバイクを紹介してもらい、万代さんと一緒に京都まで駆け抜け、自分の知らない素晴らしい世界がまだまだたくさんあることを知り、そして頭だけで考えるだけでなく、実際に行動して見ることの重要性がわかりました。また、ロードバイクに乗っているからと体調管理が慢心になった結果昨年末にギックリ腰に、年が明けてインフルエンザにもかかり、つくづく自分の体力のなさを痛感しました。感情だけでなく、体も自分の思い通りになるものではなく、今の自分は心身の背丈がこんなもんかと分かったと同時に、健康な心には健全な体作りが重要であり、それは一朝一夕ではならず、日々の努力が大切だとわかってきました。また、それは森田学習でも同じだと思いました。

 これからの森田学習でも、気張らず、奢らず、そしてなにより安きにつかず、仲間と切磋琢磨して頑張っていきたいと思います。
 これからもみなさん、よろしくお願いします。

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