●「くまったくんとありのままさん」リニューアル記念特集 ●
ETV特集 あるがままに生きる 〜神経症の時代を読み解く〜
森田療法が平成10年にNHKのETV特集で紹介されました。
その時の内容で印象深いところをまとめてみました。
次回4月度の金曜夜間懇談会では、ビデオも見ながらこのETV特集をテーマに
した内容を予定しています。 (この懇談会の様子も将来ミニ金曜夜間に掲載予定です。)
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ETV特集 あるがままに生きる
〜神経症の時代を読み解く〜
神経症は不安や葛藤が高じて日常の生活ができなくなってしまう心の病の一つです。
不安で心臓が激しく痛む、他人の視線が気になり人前にでられない、死の恐怖
からのがれられないなどこれらは身体や脳の異常が原因ではなく悩みぬいた心の
葛藤の結果おこるものなのです。
のがれられない不安とどう向き合えばいいのか・・・?
森田療法はのがれられない不安とともに暮らす生き方の指針でもあります。悩
みや不安からのがれることはできないがあるがままに受け入れ日々を充実させて
いこうというのが森田療法です。
森田療法は大正時代精神科医の森田正馬が生み出した日本独自の精神療法です
。現在はカナダ、中国などでも取り入れられています。
国内では森田療法を学ぶ会として「生活の発見会」があります。集談会は全国
各地で開かれ悩み事の話し合いや森田著作の学習が行われて
います。
悩みや不安の無い人はいません。不安の源は「人は死からのがれられない」こ
とにあると森田は考えました。
死ぬのが怖いのは「よりよく生きたい」ためなので、恐れていないで生きる希
望に変えていけばいいというのが森田の思想の根底にあります。
森田は当時神経衰弱がはやっていた原因は、人々の生活が楽で便利になったか
らだと分析しました。さしせまった命の危機はなく豊かで自由な時代ほど人は目
的を見失い不安にとらわれやすくなってしまうと森田は考えました。
戦後前へ向こうとばかり考えていた日本人は豊かになったが自分の心の内面と
向き合わなければならなくなりました。
森田を単なる治療法としてではなく生き方論として広がり始めました。
森田正馬は人の目を気にするのではなく、最後まで自分に素直にあり続けた人でした。
生きる欲望に身を任せあるがままに自分を生きていく・・・。
森田療法が見直されているのは現代の私たちにとって当たり前のようで最も遠い生き方なのかもしれません。
★(医大の教授)
森田療法の治療対象は森田神経質という一つの神経症のタイプに有効とされて
います。
特徴としては、自省心があり自分で治そうという意欲のある人。生の欲望が著明
に認められる人。
長生きしたい、病気になりたくない、人からほめられたい、向上発展したいな
ど人はいろいろな欲望に沿って生きています。少しぐらい調子が悪くても休んだ
りせず仕事をしたりしていますが、何かの拍子に外に向いていたエネルギーが挫
折して自分の内に向くと今まで正常な心身の変化と思っていたことも異常に見え
てとらわれていきます。
とらわれをなくそうとするほどとらわれ、頭の中で追い払おうとしても追い払え
ません。頭の考えは中断しておいて行動を重視して健康人として振る舞う生活習
慣を身につければ自然と心は健康になります。
★(森田正馬の弟子として患者の治療を手伝われた方)
昭和4年、患者として森田正馬に出会いました。
気が散って、雑念が浮かんで集中できないことに苦しみ治療のために森田正馬のところ
に行ったが森田からは「君、治らないよ。治らないから帰れ」と言われそれでおしまいでした。
治しにきたのに治らないとは何事だと腹が立って、「なぜ治らないのか」ときくと
「僕も同じだから治らない。診察や問診をしてても外の患者のことが気になるし、あっちこっち
に気が散っている。それでいいじゃないか。そういうもんだ。」
と、それっきりでした。「わからなけりゃ、入院して勉強しろ。」と、言われました。
ここで治らなかったら自分は終わりだと思っていました。
いろいろな治療をし
て最後に森田のところに行きました。当時は森田の評判が悪かったです。森田の
学説は理論が無いし、実際現実があるだけで理想が無い。素人だましだと言われ
ていました。作業療法で働かせて薬ものませないで金を取るということで山師だ
と言われたりもしていました。みんなせっぱ詰まって最後に森田のところに行く
という感じでした。
森田先生が息子を亡くしたとき、大きな声をあげて泣かれました。
先生は悲しみで死ぬのではないかと思われるほどでした。
「悲しみは悲しみだ。悲しんでも子供は返ってこないから悲しんでもしょうがないというのは
屁理屈だ。間違った考えだ」と言われました。
悲しく思わないでおこうとしても悲しいし、悲しくなろうとしても悲しめません
。悲しむことが自然であってあるがままです。
「自然に服従し境遇に従順なれ」
悲しんでも役に立たないというのは屁理屈です。
★(大学教授 「神経症の時代」著者)
自分達が生きてきた基盤が非常にゆらいできてるという感覚を現代の多くの人
が持っているのではないでしょうか。
日本が力でフロンティアを切り開いていく時代ではなく、人々は外に向かうので
はなく内に向かい、精神の内面と対面せざるをえないような時代になってきてい
ます。内面の不安、不快、恐怖の感情と対面できるほど人間は強い存在ではあり
ません。
人間にとって不安、不快、恐怖はそもそも人間存在の中にあるもので不安、不
快、恐怖と共存しながら人生を紡いでいかなければなりません。そうすることが
人間として健康に生きる出発点であると森田は言っています。 そういう生き方に
共感し森田の思想に関心を持ち始めている人が増えているのだと思います。
「生の欲望」、生きることへの欲望というものが人生のポイントであります。
人間は生まれつき「生の欲望」が強い存在です。裏を返せば欲望実現を妨げるも
のに対する不安や恐怖の強い存在です。生の欲望と死の恐怖から自由になること
はできません。
死の恐怖は人間感情の本然です。人間感情に本来そなわっているものです。恐怖
不安、不快を取り除こうとすることはもともとできません。
人生は恐怖、不安、不快と共存しながら歩んでいくものです。
★(会社員 生活の発見会会員)
営業の仕事をして7年目、取引先に向かう車の中で不安におそわれ呼吸が苦し
くなり救急車ではこばれましたが体に異常はありませんでした。翌日から乗り物
に乗ると不安に襲われ一時は休職状態にまでなりました。
当時、現実に満足できず年齢的にももっと自分はがんばらないといけないと思
っていて、こんな小さなことで悩んではいけない、自分はもっと能力があるはず
だと理想と現実の中で悩んでいました。組織の中での抑圧や自分の実力以上のも
のを出そうとしてストレスが体にあらわれました。
生活の発見会で森田を学び日常の一つ一つのことを丁寧にこなしていきました
。
現実を正しく見て、できないことは他人に任せてもいいし自分の今やるべきこ
とをやっていけばいいというふうになりました。あきらめとは違います。
★(ルポライター 「修羅場のサイコロジー」著者)
強烈な不安感に襲われ苦しみました。
不安と闘おうとしていました。森田療法の本の中の「あわれな神経質者の患者よ君らは
すべからく往生しては如何」という言葉が目にとまりました。
往生とは精神的に身をゆだねて頭の中でいじくらない。思考の遊戯をしない、
自分で解決策をださないということだと思います。
不安悩みはあるがままに受け入れて、事実は事実のままありのままに受け入れま
す。あきらめではなく受け入れたらそこから今やれることを一つ一つやっていき
ます。
恐怖突入という言葉がありますがおびえてばかりいないで電車にのってみる、
人にあってみます。私にとっては自分のことを書くということが恐怖突入になっ
ていました。不安恐怖になっても、まぁいいやと思えるようになりました。
★★森田正馬年譜、エビソードなど★★
明治7年
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高知県の農家の裕福な長男として生まれる。
学校嫌いのよく泣く子であった。
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10才
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近所のお寺の地獄絵を見たことが思想の源になる。
地獄絵のあまりの恐ろしさに人間死んだらどうなるのだろうかと恐怖にとりつかれた。
人は死ぬ。この時初めて感じた死の恐怖は森田の人生を支配することになった。
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中学生
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腸チフスで生死の境をさまよい、落第を繰り返す。
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大学生
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死ぬことはなぜこんなにおそろしいのか?
生や死を心の両面から見つめたいと考え、東京帝国大学に入学。精神医学を志す。
神経衰弱と呼ばれた神経症に悩み薬による治療を続けていた。
原因不明の頭痛や激しい動悸に悩まされ勉強が思うようにいかなくなったとき、
実家からの送金が途絶える。なぜこんな目にあわないといけないのかと自暴自棄
になり薬も止め夜も寝ないで勉強を続ける。勉強に疲れ果て気づくと不安に悩む
気力もなくなり晴れやかな気分になって病気も治っていた。
この体験から神経衰弱の研究に没頭した。
「死は恐れざるをえず」ということを知ってからは死をおそれないようにしよう
という無駄な骨折りは止めてしまった。
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大正8年頃
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あらゆる治療法をためして森田療法の原型を作り上げる。
自宅に患者を住まわせ日常の作業をさせ治した。
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51才
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森田療法が軌道にのりはじめたころ、息子が結核で二十歳でなくなる。
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61才
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妻が脳溢血で亡くなる。
【入り口の張り紙】
下されもの
困るもの・・・・菓子、果物とくにメロン
困らぬもの・・・品券、卵、鰹節、茶、缶詰
うれしきもの・・金、リンゴ、一輪花、盆栽、チョコレート瓶詰め、サンド
ウィッチ、女中に反物
晩年体が弱って乳母車に乗り患者に押させて外出した。
患者に「恥ずかしいか?」と訪ねて「平気だ」という言葉が返ってくると「そん
なはずはない素直になれ」と諭したという。
結核で寝込みがちだったが少しでも体調がよくなると何度も快気祝いをした。病
気がひどくなると死にたくない、駄目だと思い治療を止めてくれるなと泣いて訴
えた。
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昭和13年4月
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64才で亡くなる。
自分に素直にあり続け・・・
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