● 「緊張するのは仕方ない」と思い込もうとしても、やはり緊張感や不安感に注意が向いてしまいます。
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- 緊張したり症状が出た場合には、とにかくやらなければいけないことに目をむけるようにしましょう。
- 精神交互作用(悪循環)をおこしながらでも必要ななことはやっていきましょう。震えながらでもできるというような体験が自信につながっていきます。
- 不安を感じてしまうことはしかたないです。感じながらも行動しましょう。
- 不安を拒絶してしまうのではなく、時間の経過を待ちながら行動しましょう。
<ポイント> 苦しいことを苦しいと思い、残念な事を残念と思うのは自然なことです。
それを無理に無くそうとすればするほど煩悶になり、とらわれてゆきます。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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当然、人情の自然として起り来る諸々の感情を押しのけ、うち消そうと考え、
努力するのが凡ての強迫観念の根本原理であり、その柱と角力をとるような無益の努力・苦悩が、
強迫観念患者のいわゆる煩悶であります。それでは、何が故にあなたは、普通の人達が為さざる
二重の苦悩を味わうのであるか、という事になります。これが最も重大な点で、私はこれをあなたの
生まれつきの素質であると為したのであります。そのような素質を私は神経質となづけました。
神経質というのは、従来のような漠然としたものではなく、私が之に定義を下して一つの病名として
用いたのであります。即ち神経質と言うのは、精神傾向の内向性の者で、換言すれば常に自分の態度や言語、
その他自分の思考や疾患のみに心を配り、外界の事象に眼をむけない素質を言います。
かかる素質者が、一旦自分の欠点や疾病に気がつくと、それから逃れようと工夫して、これがますますその
欠点に注意を固定させることとなり、ますます病覚をはっきりさせることになります。ついには何でもよい、
前の病覚を思い出させるような事に出会えば前と同じように不安・不快になり、次いではこの不安、
不快にとらわれて、大元の不安不快を惹起した事柄を忘れている事さえあります。それでこれを治す法は
どうかと云うに、別に込み入った事はいらない。かくの如く複雑になった煩悶・苦悶を単純化すればよい。
一重の苦しみに還元すればよろしいのであります。之はどういう事かというと、一途に人間らしく、
素直に・最初の苦しみ・恐れをそのままに苦しめばよく、恐ろしがっていればよいというわけであります。
即ち、あなたの場合なら、ただ一すじに梅毒になっては大変だ、心配だ、不安だと、そのままに悩みつついればよろしい。
いればよろしいではない、いるより外に仕方はないのであります。これが人間の人間らしいところであります。
それを梅毒になっても平気、淋病にならねば男一人前ではない等というのは、既に並の人間ではなくヅボラ、
投げやりの意志薄弱の捨鉢気分の世迷言でありましょう。 (森田正馬全集 第3巻 P224)
物事を言葉で詮索し、解釈しようと思う時には、どうしてもその言葉の意味、すなわち「煩悶とは何ぞ」
とかいう事を、まず、つきつめてかからなけれはなりません。「金がなくなった」「働かなくちゃならん」
そんな事は煩悶とはいわない。煩悶とは、心の葛藤です。欲望と恐怖との拮抗闘争です。「金がなくなった。
残念な事をした」とか「働かなくちゃならん。苦しい事だ」とかは、そのままであれば葛藤ではない。
「あの時に、あんな事をしなかったらよかった。もしああしてあったら、こんな苦しい目にあわなかったろうに」
とかいうのは、どうにもならぬ、過ぎ去っね事をいたずらにかこつだけで、こんな事を繰り言という。
ただこんな事をくり返し・思い出し・口走るたびに、これに関連した悔しい残念な事柄ばかりを思い出して、
苦しい思いが、募るばかりである。ここまでは、まだ闘争ではなく、葛藤ではない。この繰り言は果てしがなくて、
心が滞り煩累を感ずるから、ついにはこれを思い捨てて、あきらめるようにと、その心を圧迫・否定し、
あるいは逃避し気を紛らそうとする。すなわち一方には思おうとする心と、他方には思うまいとする心との葛藤が起こる。
これが煩悶である。強迫観念の原理も全くこれと同様である。
我々は、苦しい事を苦しいと思い、残念な事を残念と思うのは、自然人情の事実であるから、腹がへった時に、
食べたいと思うと同様にこれをどうする事もできない。これをそうでなくしようとするから、全く不可能の事で、
あせればあせるほど、いたずらに奔命に疲れるばかりである。これが煩悶であり・強迫観念であるのである。
(森田正馬全集 第5巻 P384〜385)
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