● 症状や不安との闘いをやめるにはどうしたらいいでしょうか?現実的な解決法を探すには?
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- 日常生活を正しくしましょう。やらなければならないこと、自分の身の回りのこと、目の前のことをとにかくやっていきましょう。
- 闘いをやめることはできません。症状がおきた時、不安になった時に、苦しいつらいと思ってしまい楽になりたいと思うのも自然のことです。症状や不安に対してあるがままに観念するしかないと思います。
- 症状や不安から逃げたいなくしたいと思うのも自然なことなので、それを理解できるだけでも楽になるのではないでしょうか。
- 症状は見つめるほど鋭敏になって苦しくなります。目の前の事に手を出し建設的に1つでも具体的に行動を起こせば気持が外向していきます。外に向く分、症状に向く部分が減ります。
- とらわれたままでかまいません。
- とらわれを打ち消そうとすると2重の苦しみになります。現実の状況をよく見て、そこからどうすればいいか掘り下げていきましょう
- 今の状況で何ができるかを探し、できることからはじめましょう。
- 今の事実を認め、そこから解決方向をみつけます。一歩でも二歩でも進めばいいのではないでしょうか。
<ポイント> 不安や恐怖はそのあるがままに受け入れて、本来の欲望に乗ってやるべきこと
をやっていきましょう。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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苦悩は之から逃れんとすれば、益々不安となるもので、直接之に正面から打つかり、其苦痛を苦悩すれば、
例えば武術の奥義である処の「必死、必生」とかいい、兵法の「背水の陣」とかいうようなもので、
其苦悩もたちまちにして雲散して、夾快なる光明に触れ、凱旋の喜に遇うのである、余は之を佛教の煩悶即菩提という事から、
もじって煩悩即解脱といいたいと思う、即ち佛教の多くの宗派でいう処の「煩悩を断ず」という方法でなくて、煩悩の中に
そのまま飛び込めば、そのままに煩悩が安楽となり解脱となるのである。
序に之を、も一つ物に例えて見れば遊泳の時、
河水に臨んで、その内に這入れば、腹綿はつり上がり、ぞっとして呼吸もつまるであろうなど様々に考え躊躇すればする程、
益々恐ろしくなるが、一度思い切ってその内に飛び込めば、何の事なく、後には水の中から出れば却て寒くて出られぬよう
なものである、つまり神経質の患者は苦痛を予期恐怖するが故に二倍の苦痛を覚え、更に之を恐怖すまじと煩悶するが故に
恰もその苦痛は三倍となる訳である。(森田正馬全集 第1巻 P.102)
いつ地震に襲われるか、自分がいつどんな災難で頓死するか、決して「はずがない」とかで解決のできるものではない。
我々は何かに付けて、疑問と不安とは絶えず出没して、1つ1つこれを解決して、しかる後初めて安心する事のできるもの
ではない。ただ我々は疑問は疑問として、これが解決の時節を待つよりほかにしかたはなく、日常の生活は周囲の刺激から
次から次へと目まぐるしく引きまわされて、不安も不安のままに、いつまでも執着していられるものでもなし、
「流れに浮かぶウタカタのかつ消えかつ結びて」変化極まりないものである。
強迫観念も、この理を知って、無理にただ一つの事を解決しようと、もがかずに、素直に境遇に柔順でありさえすれば、
苦しい不安でも、水の上のアワのように、水の流れの早いほど早く消えて、跡をとどめぬようになるものである。
(森田正馬全集 第5巻 P.764)
我々の日常生活は、僕が精神の拮抗作用と名付けてあるように、心は常に、見るか、見ないか、逃げるか、逃げないか、
机の上を片付けるか、片付けないかという風に、必ず反対の心が、闘っているものである。この闘いを煩悶とか、強迫観念
とかいうのである。神経質はこれを完全に解決し徹底的に決めようとするから、そこにますます煩悶苦悩が絶えないのである。
我々の日常生活はすべて仮定である。仮定という事は、同時に諸行無常という事です。どっちか一方に決めようとしても、
世の中は、決して思う通りにできるものではない。「当て事と、越中褌とは、前からはずれる」といって、いくら自分で、
都合のよいように決めても、周囲の事情で、どう変化してくるかわからない。何も絶対絶命とかいうような頑張りの心はいらない。
この心の葛藤が起これば、仮に、どちらか、一方に決めて見る。すると、都合のよい時は、じきに解決案が浮かび出てくるし、
都合の悪い時には、心はいつの間にか他の事に流転して、前の執着から離れるという風である。
こんな事は、皆さんの自己内省により、自覚を深く深く進めて、容易に知る事のできるものである。
これについて、僕が平常、著明に自覚する事は、今にも時々起こる死んだ子供に対する強い感動が、たちまちに流転する事である。
これは一度、形外会で話した事があるから、詳しい事はいわないが、例えば盆踊りを躍っている時など、子供の写真が、
ふと目にとまる。
急に強い感動が、反射的に起こるが、その時に、決してその心を抑えつけるとか、心を他に紛らせるとかいう事をしないで、
大胆に、その考えを浮かばせておくと、極めて迅速に、前の美人の事から、五・一五事件に変転して行くように、
ぱっぱと消えて行くのである。それはあたかも、鏡の前に、物がくれば映り、去ればなくなるというほどにも、早いものである。
それで僕が、その強い苦しい感動から、逃げる事を考えないのは、それは決して逃げ道はない、逃げようとすれば、
ますます執着にとらわれるものである、という事を自覚しているからであります。 (森田正馬全集 第5巻 P.423)
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