● 逃げてはいけない、恐怖突入しなければと思ってしまって苦しいです。
  • 好きなことをやる時には恐怖突入とは思わないはずです。好き嫌いが激しいと いうことは「わがまま」です。嫌なことに向かって任せてみるという姿勢が大切 です。
  • 何かをする前に(あれこれ取り越し苦労して)こういうふうになるのではない かと悪いふうに想定するのではなく、次にどういう人生ドラマが始まるか期待す るようにすればいいのではないでしょうか。
  • 私たちは川の流れに逆らってでも泳ぎきろうとするきらいがあります。自分を 流れにまかせてみようというそんな考え方もあります。
  • 恐怖や不安を取るために行動するのではなく、目的に向かって行動しましょう。
  • 目的にそって熱中している間は、恐怖不安は意識しないものです。
----- 森田先生のことば --------------------------
余の療法としては、頭重・朦朧感とか、物を気にするとか、耳鳴・眩暈・心悸亢進・其他の発作症状とか、 或は諸種の疼痛異常感覚のようなものでも、患者に対して、「其不快・苦痛・若くは其恐怖になりきる」 という事を教える。即ち之を治そうとする事、気を紛らせる事等を一切断念させる。
 頭重ならば、絶えず之を気にし、耳鳴ならば、常に之に聴き入り、物を気にするならば、そのままに 常に気にするようにし、心悸亢進ならば、その強迫に突入して、胸の苦しさから、注意を紛らさないやうにする、 とかいうようなものである。
 余は之を「あるがまま」とか、「恐怖に突入する」とか、「見つめよ」とか、いう風に指導するのである。
 以上の事は、要するに、「苦痛・恐怖に対して絶対になる」という事である。絶対であるから苦痛と安楽、 恐怖と勇気とかいうような相対的の比較はない。この相対がなければ、既に苦楽・善悪とかいう名目はない。 名目即ち観念がなければ、そこに苦痛・恐怖というものはない。そこに耳鳴もなければ、心悸亢進もない。 胃アトニーなどが消失する実例を見ては、しばしば我ながら、奇蹟的にさえも感ずる事があるのである。
 吾人の意識は、差別のあるところにおいて、初めて現はれるものである。深き霧に包まれた時に、 咫尺(しせき)を弁ぜず、暗夜に物の見境のできぬようなものである。

(中略) 之に反して余の方法は、余が「事実唯真」という事を提唱するように、苦痛を苦痛とするという事は、 そのままの事実であるから、誰にでも出来ないことはない。
 そして余の入院による精神修養療法は、上の原理から編成したものであって、初め絶対臥褥療法を施して、 苦痛を苦痛とするより外に、道のない境遇に置き、次に作業療法に移り「苦しみながらも、いやいやながらも、 目につくままに、何かをしている」という境遇に患者をおいて、「自然服従し、境遇に従順なれ」という事を 体験させるようにするのである。
 読者が理論ばかりで之を想像しては、その事実を疑うことは無理もないけれども、之を実地について見れば ほとんど常識で想像し難いような効果を認める事が出来るのである。
(森田正馬全集 第3巻 P.334〜335)
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