● まわりの人達は楽々となんでも行動しているのに、私だけどうしてこん
なに苦しまなければいけないのでしょうか?まわりの環境がわるいのでしょうか?
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- 人のこと、まわりのことを見ていないからではないですか?
- 行動することによって、自分のことだけではなく、まわりのことも客観的に見
えるようになります。心でやりくりしているだけでは客観的にみえてきません。
- 実際には自分以外には自分を悩ますものはありません。
- まわりが自分を苦しめ悩ませているのではなく、そういうことを感じる自分が
いるだけです。
- まわりの人達も現実的なことで、つらいこと、苦しいことがあり時にはものす
ごく悩んでいたりする。何の悩みもなく楽々と行動しているわけではない。楽々
とやっているように見える人でも大変な思いをしたり、悩んだり、努力し、気づ
かいをしているものです。
- 自分がつらいとまわりが見えなくなってしまいます。公平な見方ができなくな
っています。冷静に客観的に他人を観察したらみんな楽々とやっているわけでは
ないということに気付くはずです。
- 症状があっても邪魔にならなくなるのは認識が変わったからです。症状は甘え
です。欲求が高いわりに実践や行動がともなっていないのではないですか。
- 症状や不安がつらく苦しくて逃げてる人も逃げてない人もしんどいのはどちら
もいっしょです。どうせしんどいならともかく一歩前に出てみましょう。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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山野井君が重役に会うのに、その前日には予期恐怖があり、その日になれば不安がしだいに高まり、
重役室の戸をノックする時には、もはや絶体絶命になる。
これは常に普通の人の心理であります。山野井君がこれをもって普通の人には想像できない
かも知れぬと断るところは、まだ少しく君の修養の不足するところといってよいかと思う。
人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では恥ずかしい。これを平等観という。
「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時に、たとえ酒屋の小僧でも、寒い時には苦しいと観ずるのを平等観といいます。
それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別に苦しいというのを差別観という。この差別をいよい
よ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協できなくなり、強迫観念はしだいに憎悪するのである。
また例えば吾人は、眼が横に二つついている事は平等観であるが、その眼のつきぶりが、実に千変万化であって美人もできれ
ば醜人もできる。これが差別観である。
しかるに吾人はただこの差別のみを強調して観ぜずに平等と差別と両方面を正しく批評する時に、
「事実唯真」を認める事ができていたずらに自己中心的の小我にとらわれて、強迫観念になるようなことはないのであります。
(森田正馬全集 第5巻 P.40)
我々は、人から、陰険とか・卑劣とか・ヒネクレとかいわれると、自然にこれを気にし・
意に介せざるを得ないのが人情です。これを気にしないようにしようとするのは、
雨天をうっとうしく感じないようにしようとするのと同様で、不可能の事です。我々は社交上において、
絶えず人から、ほめられたい・憎まれたくないという感情の起こるのが、人間の社交的動物たる所以の本能であります。
我々が、空腹時に、食べるか食べないかという問題でも、なかなか簡単に片付ける訳には行かない。
よそで御馳走になるとき、極めて複雑なるかけひきのある事は、誰も知っているはずです。
もしこれを簡単に解決するならば、それは小さい子供の事です。我々の精神は、発達するほど、
その感情の働きは非常に複雑になる。これを簡単に、人の目を見つめるがよいとか・悪いとか、
解決しようとするのが、神経質の考え方の間違いである。
つまり、我々の複雑な精神葛藤を当然の事と思わず、いたずらにその苦悩から逃避せんとする、
ずるい不柔順な心からであります。私が当然気になるものは、気にしなければならぬというのはこの事であります。
話は変わるが、神経質には、社会主義の考えが、随分多いようである。
それは神経質の自己中心主義から、いろいろの自分の不満を、自分の考え方の間違いとは、気がつかず、
罪を周囲に嫁し、人をうらやみ・世を呪う事から起こることである。
社会主義者は、例えば自分の失業を自分の罪とは考えず、何かは知らねど、社会制度の悪いためかと、
漠然と考えるようになるとかいう風である。とくに赤面恐怖・対人恐怖患者にこれが多い。
アカは赤に通ずるという訳でもあるまいけれども。(笑声)
ここへ入院すると、社会主義は、赤面恐怖のよくなる前に先に治る。共同生活をして働いているうちに、
自然に考え方が違ってくる。
赤面恐怖は机上論で、思想するのみで実行しない事が著明である。それが実行するようになると治る。
台所の仕事でも、入浴・便所の事でも作業の種々の道具でも共同生活のうちに、少し不真面目の人がいると
種々の衝突、不便利が絶えず起こり、うるさく腹立たしくなる事が多く、これを便利な思い通りの
生活にするのには、容易な骨折りではできないという事を体験する。
それで自分等が、前に共産主義に共鳴したのは、自分等の思うように便利・有効に世の中を
あってもらいたいと考えたのであって、自分等が他の人びとを世話し、他人のいたずらをした
尻ぬぐいをしてやりたい、という主義ではなかったという事に思い当たるのである。
森山君は、この事がわかったのである。 (森田正馬全集 第5巻P.348〜349)
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