● 日常生活に即した実践目標を見つけられないときはどのようにすればよ いのでしょうか?
  • 自分の為、自分に役立つ事だけをやろうとするのは症状克服の妨げになります。 自分の為の目標ではなく自分以外のことにも目を向けましょう。
    やってみようという素直さが大事です。
----- 森田先生のことば --------------------------
またこれは、人もするかどうか知らないが、私は開き戸を開けるとき、 少し具合が悪くて、開きにくいような場合には、手と足と両方を使うと、うまくできる。
これはあるいは昔、私が柔術をやった手足の共同運動の練習の結果かとも思う。  このようなハラハラした心持は、どうして起こるかといえば、決して「疲れた時は、どうするか」 とか「静かに急げ」とか、標語を立てたり、主義に従ってやっているのではない。ただ物に触れ、 事に接して、あれもしたいこれも捨てておけないという心に駆られて、寸陰を惜しむという自然の開放された 心である。前に出た質問のように、自分の心を、さまざまにやりくりしようとするはからう心が、 少しでもあってはできない事である。

この心境は、幼児と比較すると、よく似たところがある。
子供が遊ぴ事に熱中しているとき、母親が、衣物を着替えさせようとしても、なかなか難しい。
ちょっと衣物を脱げば、裸体で走り出す。つかまえられて手が利かない時は、足でいたずらをするという風に、 ちょっともじっとしていない。絶えず心が、外界の刺激に対して、ハラハラしているのである。

次の事は、前にお話した事があるかも知れぬが、私共は、いわゆる「お八つ」に、お菓子でお茶を飲むという事がない。
これは土佐人の風俗でもあるが、三河の国の人は、よくこの「お八つ」の風習があるようである。
私共は、お茶を飲むのは、ただ、ノドの乾いた時だけであって、その時にも、新開雑誌を読むとか何かをしている。 ウットリとして、お茶を飲んでいるという事はない。

 以前、私が病院から、帰って来ると、くたぶれてがっかりしている、横になって寝たい気持である。
私は門から入って来る間に、はや服のボタンや時計やをはずしながら来るが、縁側を歩きながら、 上着をとりチョッキを脱ぐ。その間、ツイツイ庭の盆栽や何かが目につく。なんとはなしに手を出す。 それからそれと心が引き出されて、衣服を着替える暇も惜しいという事になる。
ある時は、絽羽織りのままで、畑の手入れをして、家内にいやがられた事もある。
家内は、いつも「あまりせわとなくしなくとも、お茶でも飲んで、一休みすればよかろうに」 というけれども、もしそうすればがっかりして、仕事に手も出なくなってしまう。
それが私のようなやり方にすると、「休息は仕事の中止にあらず、仕事の転換にあり」という風に、 いつの間にか心が引き立って、疲労を忘れ新しい元気が出て、それから初めて、お茶を飲みながら、 勉強に取りかかる事ができるのである。
これは、決して自分でことさらにその態度になるのではない。
ただ前に申したような、寸陰を惜しむという自然のハラハラした心から起こることである。 疲労も頭痛も忘れてしまう。

また、さきはど若林君の汽車旅行から帰った時のお話があったが、私はいつも随分長い汽車で、 少々頭痛がするような時でも、家に帰りついて見ると、疲労していながらも、 丁度子供のように、トランクの土産物を出して見たくなるし、一方には、机の上に、新着の手紙や雑誌が、 うず高く積まれてある。どんなものが来ているかと、ちょっと手を出してみる。
前に出した事と同様に、それからそれと、心が引き出されて、疲労も頭痛も忘れるようになる。
これで相当に大きな仕事が出来上がるのである。
 こんな時に、自分の疲労や頭痛の程度を測量して、仕事の判断をするのではない。 ただなんの理屈なしに、自分自身をそのままに、境遇の前に投げ出して、物事にぶっつかるだけの事である。

ここで修養して、成績のよい人は、決して理屈を教えられるでなしに、 誰でも自然に、この心境が得られるようになる。
この事は、退院後の報告にも、非常に多い事である。私の家内は、旅行から帰れば、いつでも、 自動車に酔ったとかで、必ずしばらく寝込んでしまう。
これを私のような具合にやっていれば、容易に船や車に酔う事も治るけれども、これができなければ、 なかなかいつまでも治らないのです。
 以上お話したところによって、皆さんはたいてい「疲労したとき、どうすればよいか」とか、 理想主義の考え方は間違っていて、あるいは強迫観念の元になるという事も、おわかりになる事と思います。
 なお「疲れた時どうするか」の問から、「それでは、熱の出た時には・・・・」という話が出たが、 これは言葉尻にひっかかるという事であり、また能率という事にとらわれての考え方であって、 物を一途に一面的に考え、自然という事を忘れる神経質の癖である。
(森田正馬全集 第5巻P.575〜577)
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