● 内面の葛藤を押さえ込んで他人に知られないように苦心してしまい自分 が嫌でたまりません。
  • 人に知られまいとすると歯を食いしばってしまうことになります。もっと素直 に表現していったほうがいいのではないですか。
  • まわりから認められたいという思いが強いです。反面、認められないことが葛 藤になっています。人からの評価ばかりを気にせずに自分が何をしたかというこ とを大切にしましょう。
  • みんな一人一人違っていて個性があります。神経質で悩んでいるのも個性かな と思えるようになりました。
  • 以前はすぐにどん底まで落ち込んでしまっていましたが、今はそれほどまでは 落ち込まなくなりました。自分の失敗も認められるようになり、すべての人に認 められることは不可能だとわかりました。森田で考え方が変わった部分もあり落 ち込みや不安をやみくもに恐れなくなりました。落ち込みなどに対し歯止めがき くようになりました。
----- 森田先生のことば --------------------------
強いて笑い顔をするという事は、嘘をいうと同じように、なかなか難しいものである。
勿論、平気で嘘をいう種類の人は別であるが、神経質はむしろ愚直に近いほどの人もあるから、 この種の人には、なかなか思うようにできない。
 この場合には、ただ自分は、不機嫌な気むずかしいわがまま者であるという事を自覚し、 人にもこれを認めさせ、その結果として、当然人に嫌われ、うるさがられるものであるという事を覚悟し、 その応報を受けさえすればよい。決して自分はこのような性質であるから、人は大目で見て、 自分を許してくれるべきである、人は自分が悪人でない事や、自分の正直のところなど認めて、 理解してくれなければならぬ、などと考えてはならない事である。
このように思い定め、覚悟して後には、社交的にあるいは家庭的に、時と場合とに応じて、 笑うも笑わないのも、自由由在で、必ず自然の人情味が現われるようになるのである。
(森田正馬全集 第5巻 P.206)

自分は正しい事をいわなけばならぬ、男らしく大胆でなくてはいけない、 とかいう奮発心を、思いきって捨ててしまえばよいかと思います。
自分は対人恐怖、すなわち恥ずかしがりやで、正々堂々と、やって行けるような大胆者ではない、 気の小さい見栄坊であるという風に、自分自身になりきってしまえば、行くべきところへも楽に行かれるようになる。
もしあのような事を問われたら、自然に頭を掻いて、口ごもりて、いうべき事もいえず、言葉を濁して、 その場をつくろうのであります。これがすなわち赤裸々なる自分を投げ出すので、我々は真をいおうとして、 かえって虚勢を張り、虚偽になる事が多い。
貧乏が金持ぶれば虚栄であり、小胆者が大胆ぶれば、 かえって真実心ではない。真でなく無邪気でない人は、決して人に愛せられるものではない。
一休禅師のいった事で、曲った松の木を真直ぐに見るには、どうすればよいか、それは曲った松であると、 そのままに見れば、すなわち真直ぐに見たのである、というようなものであります。
山野井君がかつて、思いきって捨身になり、頭がガンとするような思いをして、社長のところへ行った時、 初めて心機一転して、スラスラと自由に、社長と話ができ、家に帰ってその日、今まで少しもよくならなかった 書痙が治って、スラスラと字が書けるようになった。
これは決しで理論で治すのではない。 ちょっとした心の、はずみであって、つまり「コツ」であるから、実行しなければ、 決してわかるものではありません。
(森田正馬全集 第5巻P.76)
とじる