● 不安で行動ができません。不安緊張をどのように活かせばよいでしょうか?
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- 友達の結婚式のスピーチを頼まれましたがあがってしまうのでスピーチをしたくありませんでした。
しかし、私があがるのを知っていて頼んでくれた友達の気持ちに答えたかったのでスピーチしました。
- 不安が大きいときは欲求に目を向けるようにしてバランスをとるようにしています。
- 波に曝される岩壁のようなもの。波(不安)は避けて通れません。波は来るものであるから常にあるがままの態度
で臨みます。
- 頭で考えるだけでなく、行動実践経験を積む中で少しずつ客観的に見れるようになり調和が取れるようになります。
- 不安、緊張にとらわれることなく欲望に乗って行動していきましょう。
- なるべくして不安や恐怖になっているものです。(下準備をしていなくて不安になっているなど)
不安、緊張があるときに後先考えずに一歩前にでるのではなく、一歩さがってまわりの状況を見たり、
人に相談することも必要です。
- 神経質者は不安や恐怖を過大に異物視してしまい、本来の欲求を無視してしまいがちです。
<ポイント>不安は欲望の反面です。欲望が強ければ不安も強いのです。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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これらの恐怖に対する臆病も、これを矯正する事は、前に述べたように、欲望と恐怖との調和によってできるものである。
恐怖そのものに即していはば、恐怖せざらんと努力するのではなく、恐怖感情は只そのままに持ちこたえていさえすればよい。
例えば電車通りに住む人がその音響も、さほど苦にならないようになるのは、そのうるさいうるさいと思う気分を、
そのままに我慢しているからである。これに反して時計の音でも、もしこれを聴かないように、気に止めないようにと
努力する時には、ますますこれが耳について、不眠症を起こす事さえもあるのである。
なお欲望と恐怖のとの調和とは、例えば吾人が毛虫を恐れるのは、本能的感情である。
之が人に飛びついて、害を加える事がないということを知るは知識である。これを駆除するのは、園芸の必要に迫ら
れるがためである。恐れるままに、園芸の欲望に駆られている間に、いつしか慣れて、毛虫を手でつまんでも平気に
なるようなものである。これに反して先ず毛虫を嫌がらないように、その本来性感情を否定排除してかかろうとすれば、
その不可能の努力と共に、徒に恐怖感情を徴発憎悪して、ついには園芸の恐怖に対して手を出すことも出来ないように
なるのである。 (森田正馬全集 第7巻 P.590)
恥ずかしいことは、何を意味するか。それは人から嫌われないように、好かれたい。劣等のものとは思われず、
偉いものと見られたいという感情である。
言いかえれば、人から良く思われたい欲望で、即ち同時に、悪く思われは
せぬかという恐怖である。人々は、異性、金銭、名誉、権勢等を獲たいと憧れる。之を獲るには人から良く思われる
事が得策である。此故に美人や金持ちや偉い人の前では恥ずかしいが、乞食や愚人や醜婦の前では恥ずかしくないのである。
吾人が死を恐れ、病を厭うのは、生の欲望を全うせんが為である。死ぬる心配さえなければ、生きていなくともよ
いという筈はない。生きたくないものが死を恐れる訳もない。然るに神経質の気質は死を恐れることに執着し、没頭
して生の欲望を失念し、病をいたわる事に熱中して、日常の生活を忘れ、例えば正岡子規が7年間、仰臥のまま苦痛
にあえぎつつ、しかもあれだけの子規随筆、その他の大部ものが出来たというような事は、思いもかけぬ事である。
子規は即ち苦痛は苦痛として之を苦しみ、欲望は欲望として之にのりきったのである。神経質の見倣うべき処は此処にある。
神経質は徒に苦痛を回避し彌縫(*1)せんとするがために、自己本来の欲望を無視し、没却してしまうのである。
死の恐怖と生の欲望の関係と同様に、羞恥の恐怖は、同時に優越の欲望である。優越欲とは、上に挙げた思うがままに獲たい
という欲望と同様である。前に「負けおしみ」といったが、それは同時に「勝ちたがり」であって、勝てぬ残念・勝てぬかも
知れぬという心配が即ち「負けおしみ」であるのである。
神経質が死を恐れるために、生の欲望を忘れるように、赤面恐怖は、
負けるを恐れるために、勝ちたいことを忘れ、羞恥を恐れるために、人に優りたいという欲望を無視してしまう。しかも勝敗を
度外視しよう、毀誉・貶褒(*2)を超越しようとしても、自己本来の人情を否定する事は出来ないから、結局は苦悩、煩悶に
陥ってしまうのである。 (森田正馬全集 第3巻 P.169〜170)
(*1) 彌縫 読み→びほう 意味→とりつくろう
(*2) 毀誉・貶褒 読み→きよ・へんほう 意味→けなすこととほめること
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