● 常に不全感に悩んでしまいます。
  •  嫌な感じも、天気と同じように自然のものです。しんどいことや、嫌な感情も当たり前の感情なので払いのけようとしないほうがいいです。
  • 「嫌だな〜」と思っていればいいのです。嫌な感情をなんとかしようとして嫌な感情に向かっていくとますますしんどくなります。
  • 「心静かな世界」がどこかにあると思いがちだが、そういう世界があると思わない方がよいです。
----- 森田先生のことば --------------------------
完全欲が強過ぎて困る、あまり徹底し過ぎる、それが邪魔になっで苦しい。
それをいい加減に調整したいという意味の質問である。 しかるにこの完全欲の強いほどますます偉い人になれる素質である。 完全欲の少ないほど、下等の人物である。この完全欲をますます発揮させようというのが、 このたびの治療法の最も大切なる限目である。完全欲を否定し、抑圧し、排斥し、ごまかす必要は少しもない。 学者にも金持にも、発明家にも、どこまでもあく事を知らない欲望がすなわち完全欲の表われである。
我々の内に誰か偉くなって都合の悪い人がありましょうか。偉くなりたいためには、勉強するのが苦しい。
その苦しさがいやさに、その偉くなりたい事にケチをつけるのである。あの人が自分に金をくれない、 それ故にあの奴は悪人である、とケチをつけるようなものである。偉くありたい事と苦しい事と差引きして考える必要はない。
これを別々の事実として観察して少しもさしつかえはないのである。この心の事実を否定し、目前の安逸を空想するのが、 強迫観念の出発点である。吾人の完全欲、すなわち向上心のある事は、丁度水が低きにつくと同じ自然の勢力である。
水はどこまでも流れ流れてやまざらんとする。岸があれば曲がり、岩があれば砕け、土があれば押し流して進む。 これが自然である。エジソンが汽車の車掌になれば、その汽車中に実験室を設けて研究を続けた。 これが土を押し流す完全欲のカである。

ある時エジソソが汽事中で火事を起こし免職されて、今度は電信局に雇われて、 やっぱり自分の好きな研究を続けた。これが岸にぶっつかれば曲がりて流れる欲望のカである。
完全欲を否定したりごまかしたりする必要は少しもない。この完全をそのままこ持ちこたえて行く事を自分の 心の自然に服従するといいおのおの境遇の変化に順応して、ますます工夫に努力する事を境遇に従順であると称するのである。
(森田正馬全集 第5巻 P.32〜33)

この欲ばるという事は、何かにつけて、あれもこれもと、絶えず欲ばるがゆえに、 つまり心がいつもハラハラしているという事になる。慢性の病気で衰弱すれば、食欲もなくなるとともに、 欲望もしだいに薄くなってしまうが、健康な間は、ますますこのハラハラが盛んなはずである。
今度の私の病気の時も、少し苦痛が楽になると、論語のような一句一句のものを、静かに味読する事ができる。
この時期には、まだちょっとしたものでも、続いたものを読む事はできない。こんな論語や何やの文句を記憶して、 これをあの世へ持って行こうというのは、少しも理に合わぬ事である。
すなわち、神経質の患者や理論にとらわれてしまう 時には、勉強も欲ばりもすべて放棄してしまう事がある。すなわち私のいわゆる純なる心、自然の心を没却して、 思想の矛盾に陥るのであります。
上に述べた事が、いわゆる生の欲望であるが、私がこれをさらに私の心の奥へ奥へと反省を進めて行くと、 私の心は、いわゆる「欲の袋に底はない」とか、「朧を得て蜀を望む」とか、私の生の欲望には際限がないという事を、 知るのであります。
赤面恐怖でいえば、人に笑われるのがいや、負けたくない、偉くなりたい、とかいうのは、 みな我々の純なる心である。理論以上のもので、自分でこれをどうする事もできない。
私自身についていえば、私はこれを否定する事も圧服する事もできない。私はこれをひっくるめて、 「欲望はこれをあきらめる事はできぬ」と申して置きます。
これで、私はこの事と「死は恐れざるを得ず」との二つの公式が、私の自覚から得た動かすべからざる事実であります。
常人には「まだ死ぬる事を考えた事がない」とか、「死ぬる事は少しも恐ろしくない」とかいう人があり、 また修道者は「死を恐れない、工夫をする」とかいう事があるが、私はこれらはみな自覚が足らぬからではなかろうかと思います。
(森田正馬全集 第5巻P.114)
とじる