● 嫌な感情をいつまでもひきずってしまいます。行動してもいやな感情が取れません。 感情の法則は体験的に実感が無く納得できない部分もあります。 とかしようとしてしまいます。
  • 喜びや嬉しさは心地よいので当たり前のものとして味わっています。嫌な感情だけを敵視しているのはおかしいのではないですか。
  • 嫌だなという感情は誰にでも起こります。自分は執着性が強いので、いつまでも引きずってしまいます。自分はそういう性格だということで、別に卑下する必要もありません。引きずらない性格がいいとは限りません、淡泊な人は平気でミスを起こしたり、心配りに乏しいです。
  • 自分のやった行動を軽視するのでなく、行動に重きを置きます。
  • 仕事をすると楽になると思っていましたが、楽になるために仕事をするものではありません。
  • とらわれがひどい時は今すぐこの感情をなんとかしようとして、感情の法則にあてはめようとしてしまうからなかなか納得できないのではないでしょうか。1週間、1カ月、1年の長いスパンで感情を捉えると「感情が流れる」「消失する」「慣れる」といったことも納得できるのではないでしょうか。
  • 感情を放任する態度をいかに身につけるかということが大切です。感情をなんとかしようとするのではなく、とにかく物事にあたって処理していけばよいのです。
  • 感情の法則もいろいろな体験を積んだ結果としてわかりますが、とらわれて苦しんでるその時に分かろうとしても難しいです。
----- 森田先生のことば --------------------------
いつか、日記に「画をかく事は、いつでも熱心になるが、勉強の方は、うまくいかない」 という事を書いて、御批評を受けた事があるが、その事をお話して下さいませんか。

 森田先生:それは面白い問題だが、少々難しくて、皆さんにわからないかも知れない。 しかしありのままにいえば、わかりきった事です。画は好きだから、面白いから、熱心です。
すなわちたとえてみれば、「遊びに行くのは、熱心だが、苦しい仕事は、うまく行かない」とか、 「羊羹は好きだが、薬は嫌いだ」とかいうのも同様です。
 なお勉強という事は、その字義からして、苦心・努力する事です。「面白く慰む」という意味ではないのです。
それが時代の変遷とともに、いつしか読書という意味に変化し、この頃は、キングや講談倶楽部を読む事さえも、 しゃれて「勉強している」という風に表現する事になったのである。

さて、画が面白いというけれども、もしこれが競争試験で、二十人に一人選抜するという時には、どうでしょう。 その時には画題を研究し、筆致を工夫するとか、なかなかの勉強を要する事になるでしょう。 この時には、あるいはF君をして「読書は熱心になるが、画の方は、うまくいかない」とかいう歎声を、 漏らしむるかも知れない。単に「遊び事」といっても、それが遊覧地の案内人になったり、 客をとりもつ幇間になったりしては、かえって普通の勉強よりは、一層苦しいものかも知れない。
それで「熱心になる」とか、好きとか、面白いとかいう事は、どんな事か。
時と場合とで、いかに変化するかとかいう事をお話すれば、面白いけれども、短い時間ではできない。
成功の結果の著明なものは、面白いとか、同じ仕事でも、人に頼まれると、たちまちいやになるとか、義務責任で、 気が張ると面白くないとか、「好きこそ、物の上手なれ」とかいう風に、上手な事が好きになるとかさまぜまの 場合があるのである。
しかるに、この問題の目的は、「どうすれば自分で、好きな面白い事をしないで、 苦しい勉強をするようになりうるか」という事である。言い換えれば「苦しい事が、楽になり、苦いものが 甘くなるには、どうすればよいか」という事になる。無理な相談である。
されば、この場合には、まず第一に、面白いのも・苦しいのも・当然そのあるべきにある、 という事を知らせて、それはどうする事もできない、という事を覚悟させる事が必要である。
その上で、いやな苦しいことは忍受し、しなければならぬ事はする、というよりほかにしかたがない。
(森田正馬全集 第5巻 P.397〜398)

次に先づ刑事恐怖に就き、お考えの間違いの点を申し述べて、強迫観念の治し方を述べます。 「警察につれて行かるるも、決して恐るる事なし、と思いつつも、恐ろしい。」之は言葉の使い方が、 具体的に事実を言わないから、「恐ろしくなくて、恐ろしい」という矛盾になります。
「毛虫は、恐ろしくなくて、恐ろしい」というと同様です。之を次の様に言えば、正しくなります。
「警察へつれて行かれても、自分に犯した罪はないから、言い開きは立つが、何だか警察は、気味が悪く、いやらしい」 「毛虫はいやらしく、気味がわるいが、決して飛びつき、食いつきはせぬ」という様なもので、 此の言い方を「事実のままに見る」と言います。
則ち此の時は、警察を恐ろしいと思い、毛虫を気味が悪いと考えてはならぬ、という風に、自然の感情を否定したり、 馬鹿らしいと考えたり、其の心を起さない様に、とかする必要もなければ、之を否定する事は、 当然不可能の事であるから、只そのままに感じているより、他に仕方の無い事がわかります。
そのままに、その感情に従っておれば、其の恐怖は、直ちに忘れ流れて、決して強迫観念になる事は無いのであります。
(森田正馬全集 第4巻 P.437)

<感情の法則>

余の神経質に対する精神療法の着眼点は、寧ろ感情の上にありて、論理、意識等に 重きを置かないものであるから、更に感情のことに就いて、少しく説明を加えて置 かなければならない。先づ感情の方則、即ち感情の事実として、凡そ左の如き場合を考えることが出来る。

第一、感情は、之をそままに放任し、若くはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、 一昇り一降りして、遂に消失するものである。
例えば、苦痛、煩悶も、之を自然に放任して、之に堪え忍んでいれば、幾ばくならずして、 次第に消失することは、余の臥褥療法によりても、また之を見ることが出来る。土佐の武士道の中に、 「若し憤怒して喧嘩をしようと思う時には、三日考えた後に、初めて之を決行するがよい」ということがある。
これはその三日の間に、感情が自然に消失するという事を応用したものである。 
その他、悲しいときに、 泣いてその悲哀を発散し、或は憤怒のときに、怒号して、気が晴れる、とかいうようなことは、 感情は之を表出外発すれば、頓挫するものであって、之を次の第二の方則により、代償的に、 其衝動を達したものと見る事が出来るようであるけれども、亦之を感情の自然の経過とも解することが出来る。
彼の「ヂエームス」は、「吾人は、悲しきために泣くのではなく、泣くがために悲しいのである」といって、 悲哀の情と表情との前後の関係を反対に見ているけれども、余は涕泣の表情と、悲哀の自覚とは、単に同一の事実を、 客観的と主観的との二方面から観たる相違たるに止まり、実は之を同一の現象と看作すものであるから、是等の発情が、 其自然の経過によりて、放散するものと解してもよいことと思うのである。
フロイド氏の「ヒステリー」症に対するいわゆる浄下法は、其機会的原因たる同氏のいはゆる願望、 即ち恐怖若くは怨恨等に対して、共感情を表出発露せしむる方法であって、此の感情の方則による 症候的療法と解することが出来る。又此浄下法は、一方には、之を今村博士の説の懺悔による精紳的開放 ということと同理によりて、鬱積せる感情の精神的負担から脱するがためである、と解することも出来るのである。

第二、感情はその衝動を満足すれば、頓挫し消失するものである。 例えば餓えたる時、食を摂れば、 その苦痛を去るが如く、或は「結婚は恋愛の終結なり」とか、いってあるようなものである。
神経質の患者は、往々にして或は刺激性の心情、若くは悲観的の感情等に対し、その衝動を発散して、 その苦痛を脱しようと試むることがある。患者は之によりて、一時の快を得ることが出来るけれども、 その結果として、理性的自責の念のために、後悔の情、交々到りて、却て煩悶を増すようになるものである。
此故に患者は、常に感情に堪え、衝動を自制することを積古した方が得策である、という事を知るようになる。
之に反して、意志薄弱性の変質者は、同じく衝動を達した時の快を得て、神経質のような道義的観念による後悔と 抑制力とを欠くが故に、その経験を重ぬるに徒ひて、ますます其快を貪り、衝動を制することが出来ないようになるものである。

第三、感情は同一の感覚に慣るに従いて、鈍くなり不感となるものである。
例えば寒さ暑さも、之に慣るるに従いて、意に介しなくなるが如く、或は下流社会の児童が、 常に叱責されることにより、終にはその叱責の言も、馬耳東風となるようなものである。
神経質患者に対する冷水浴も、感覚的苦痛に慣れることを目的とし、頭重其他の不快感でも、労作により、 之に堪ゆることを学んで、其苦痛が消失するようになるものである。
以上は感情の消失する場合の条件に就いて、挙げたのであるが、なお之に種々の条件の加わるときに、 感情は持続し、若くは強盛となるものである。

第四、感情は、その刺激が継続して起るときと、注意を之に集中する時とに、ますます強くなるものである。
従来、感情は之を表出するに従いて強くなる、といってあることも、この条件によるものである。
例えば彼の喧嘩が次第に劇烈となるのは、憤怒の刺激が継続して加わるがためである。
若し初めの中の一言を注意することが出来たならば、喧嘩に至らないで終わったであろう。
神経質者が、その家人又は他人に対して、自分の症状や苦痛を告へるのは、その事が細密に亙るほど、 ますますその症状に対する自己の注意を深くし、且つ他人の自己に対する同情の不満足を恨む等の条件が加わるために、 愈々その症状を重くするものである。此故に余は常に紳経質患者に対して、先づ第一に、其家人に対して、 自分の症状を告うることを禁ずるのである。

第五、感情は、新しき経験によりて之を体得しその反復によりて、ますますその情を養成するものである。
例えば飲食することによって、初めてその味わいを知り、実行によりて、初めて其の趣味を解することがで きるようなものである。
吾人が努力と成功との経験を反復することによりて、初めて勇気と自信とを養成するのは、 努力による苦痛に慣れると共に、一方には成功による快楽を会得するがためである。
之に反して、努力、失策、不成功を反復、経験することによりて、その人がますます怯儒、卑屈となるのは、 其努力、失策、不成功による不快の情を忘れることが出来ないからである。
是等のことは、神経質の体験的療法に於て、常に最も注意しなければならぬ事柄である。
(森田正馬全集 第2巻 P345〜347)
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