● やるべき行動はできているのですが、感情がすっきりせず気になります。
嫌な感情はどうにもならないとわかっているのですが、とらわれてしまいなん とかしようとしてしまいます。
  • スッキリしたい感情はどうにもならないので、出来た行動を評価していきましょう。
  • 感情を支配しようとしないほうがいいです。
  • 苦しいことを抱えながらでもやるべきことはやるというのが大切です。気分がすっきりする、しないではなく、単に行動ができればいいのです。
  • 嫌な感情をその場ですぐ解決しようとしない方がいいです。時間の経過を大切にしましょう。
  • 感情部分を大事にするのではなく、行動部分を大事にしましょう。
  • 自分でここまではやらなければいけないという思いが強いのではないでしょうか。
  • 強迫的だと認識することが大切です。自分の気持ちを確認するのではなく目で事実を確認します。
  • 急に大量の仕事などやらなければならなくなった時、一気に片付けようとするのではなくテンションを落としてゆっくりやったほうが良いです。気力、体力を小出しに使いましょう。
----- 森田先生のことば --------------------------
平常自動車に酔って、その恐怖にとらわれている人や、自動車の動揺や臭気やらで、 既に多少とも、気分の悪くなった場合は、当然、心は外界に転ずる事ができないようになる。 この時にはもし素直な心ならば、当然、心がその苦痛の方に奪われるようになる。それでよい。 すなわちこの時には、その苦痛に見入り、心をその方に集中して、いわゆる「なりきる」という風になればよいのである。
例えば気分が悪い、ムカムカして今にも吐きそうになる。このとき決して心を他に紛らせないで、一心不乱に、 その方を見つめている。息をつめて、吐かないように耐えている。吐けば楽になるとか考えて、 決して気を許してはなりません。断然耐えなければならない。
このとき、ちょっと思い違いやすい事は、自分の苦痛を見つめていると、 ますます苦しくなるような気がして、ツイツイ気を紛らせて、他の事を考えたりしようとする事である。
早く行き着いて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分間だとか、都合のよい・楽な事を考 えようとするからいけない・こんなとき、もう二、三分というところで、安心し気がゆるんで、 急に吐き出すような事もある。

この気を紛らせないで、苦痛になりきるという事は、例えば、 以前にこの形外会の話で、僕が筑波山や富士山に登った時のことが、「神経質」の雑誌に出ている。 重複するから、詳しい事は、お話しできませんが、富士山では、僕は六合目のところで、喘息が起こり、 今にも息がつまるかと思う。静かに静かに歩を進めて、強力にくっついて歩く。
その時に、自分を見つめるという事の一つの事柄として、僕は自分の歩数を数え始めた。 その間、雨が降ったり・霧がかかって、先が見えなくなったりする。雨も雲も、一切成り行きにまかせる。
崖に突き当たろうが、日が暮れようが、どうにもしかたがない。一二三四と、ただ数えるだけである。 何万歩か何十万歩か、行き着く所は未定で無限である。この時の心境は、現在と無限とが一如になった状態である。 もう何時問とか、もう何万歩すれば行き着くとかいう事は、一切見当がつかないから、ただ数えるだけである。
強力に予定を問えばかえって気紛らせになっていけないから、決して問いもしない。それでこの時は、 何万歩であったか忘れたけれども、五合目の岩室に着いた時は、もうはや着いたかと、かえってあっけないくらいでありました。
(森田正馬全集第5巻 P.455)

世の中の現実を、徹底的に見たのでもあれば、あるいは極めて平凡に見たといってもよいのである。 実に「道は近きにあり、事はやすきにあり」であった。今まではそれをことさらに「遠きに求め、難きに求め」ていたのである。  心配事を安心したり、忙しいのを落着いたりしようとするのは、それは「難きに求む」以上の事で、 全く不可能の努力であるのである。
 以前に香取さんが、退院のころかと思うが、「不安心に常住すれば、初めてそこに安心立命の境地がある」 という意味の事をいわれた事がある。なかなかうまい事をいったものである。
しかし一つの公案を通過するはやすいが、 香取さんは、最近までも「忙しい時は、ハラハラする」という「諸行無常」、すなわち世の中の絶えざる変化という 事実を認める事ができないで、随分たびたび私のところへ来て、いろいろの事を質問して、私の機嫌を悪くした事があった。
忙しい時はハラハラする、注射が未熟の時は手が震える、難解の読書は骨が折れる、人前は恥ずかしい、 不潔はいやらしい、みなすべて「諸行無常」すなわち固定・常住でないという事の事実である。
この事実をそのまま認識さえすれば、初めて安心立命の境地に到達し、強迫観念が解消する。
心配事をも、作為をもって安心しようとするから、そこに迷妄が起こり、絶えざる不安心に駆られる ようになるのである。
(森田正馬全集 第5巻 P.651)
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