● 偉くなりたいという欲望もあるのですが、しんどい思いをしたり、
必要以上にストレスを感じてしまうぐらいなら偉くならなくてもいいと思ってしまいます
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- 偉くならなくても、そこそこの給料で楽なほうがいいと本心で思えるならそれはそれでいいの
ではないですか。
- 偉くなるとストレスでつぶれてしまうかと思いましたが、実際なってみると、上司からいろいろ
言われてオドオドしていた方がしんどかったです。人のことを冷静にみれるようになりました。
立場が変わるといろいろ見えてくるものもあります。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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こんな事を、もっと世間的にいうならば、金持になるのが嫌いで・其日暮しがよいならば、
ルンペンで居て、少しも差支えない。只自分は偉い人になりたくないのか・酔生夢死でよいのか、
奥の奥まで、よくよく自分の心の底をたたいて、自己本来の面目を自覚する事を工夫しなければならない。
「七転び・八起き」という事がある。事業家にも・発明家にも・学者にも、総てに、二転びや・三転びで、
決してなれるものではない。
尚おもう少し、話を進めると、人生の苦痛を解脱し、或は強迫観念を全治したいという事は、いいかえれば、
安心立命という事になる。私共も、昔、長い間、之を目的とした時代があった。しかし考えて見れば、
何の為に、安心立命するのか。少し考へて見れば、直ちに判る。
然るに其昔は、安心立命は、単なる手段であって
目的は、偉くなり人生の最善を尽くすことである・という事に、気がつかなかったのである。
悪くいえば苦労なしに、「濡手で粟」の儲かりをしようという野心である。更に之を正しい思想に整理するれば、
「最小の労力を以て、最大の報酬を得よう」という経済的研究に帰着する事にむなる。
それでまだ迷いの内の披けきらない時は、安心とか全治とかいう事を、最後の目的として、それに没頭している。
しかし、其間は、「夢の内の有無は、有無共に無。迷いの内の是非は、是非共に非なり」という風に、決して安心
も全治も出来るものではない。
「朝に道を聞けば、夕に死すとも可なり」とかいう事がある。私どもから見れば折角道を知ればこれからが
初めて生き甲斐がある。
そのまま死ぬる位なら初めから道を知らないままに、盲目滅法に働いた方がまだしもの事か
と思う。守銭奴の成金が「是だけの財産を積んだら、これで安心だ。成仏ができる」とかいうのと同様で、
目先のことしか見えない鈍根の人といはなければならぬ。道を知るのは自ら救い人を済度するのが目的であり、
金を集めるのは人生のために事業を起すのが目的でなくてはならない。
このような実際の目的を明らかに看取することが出来、自己本来の生の欲望をハッキリと自覚する時に初めて
生の苦痛も其まま安心で、強迫観念の苦悩も、そのまま全治になり、「不安心即安心」「煩悩即解脱」という事
にもなります。大道は極めて手近になり、悟りは、ほんの目先の事実の内にあるのである。
(森田正馬全集 第6 P.148〜149)
今日、田舎の人で、少々理解の悪い患者が、診察を受けに来た。九年来、不眠に悩み、酒や催眠剤で、
どうやらこうやら、やっている。いろいろ話をした後に、三つの場合のある事を話した。第一に、それは現在のままで、
治さなくともよい。なんとなれば、命にかかわらず、このまま世渡りもでき、さしつかえがないからである。
第二には、私の教える通りに、催眠剤や眠りのための酒や、そのほか不眠から逃れようとする、
一切の方法をやめなければならぬ。そうすればいつとはなしに不眠の悩みはなくなる。第三には、もしこの意味が理解できず、
また自分の意志で、その通りの実行ができなければ、入院して、一定の日数、ここの修養療法を受ければ治る。
以上の三つの手段は、随意にどれを選んでもよいと、いうのである。
これをほかの例でいってみれば、皆さんの知識欲という事についても、皆さんは現在のままでさしつかえはない。
暇があれば読書してもよし、しなくともよい。中学卒業のままでも、大学を卒業してもよし、
いずれもその人びとの思い思いである。
ここの入院療法は、大学卒業のようなもので、欲の上の欲の場合である。中学卒業でも、生活はできるように、
不眠や強迫観念やを強いて治さなくとも、生活のできない事はないのである。
また金について例をとっても同様です。その日暮らしのルンペンでもさしつかえはなく、一万円の財産でも、
百万円でも、おのおのその人の希望をおく事は、どれでも随意である。
我々の修養に対する理想でも、成り行きにまかせるズボラから、終生限りなく修養に志す人まで、その間に、
これでよいという境はないのである。
みなその人の自覚の深浅によって定まる事である。
結局我々は静かに自分を見つめる時に自分は果たして、何を求めつつあるかという事を知らなければならない。
例えば我々が、不眠を治したいという事は、何を意味するのであるか。単に不眠そのものが苦しくて、いたずらに
惰眠を貪りたいというならば、酒や阿片を飲んで、酔生夢死すればよい。もし深く自分自身を考えてみれば、
決してそんな事はない。不眠を恐るるのは、実は翌日の仕事の能率のあがらない事を恐れ、あるいは通俗医書で
おどかされるように、病的になり、身体がしだいに衰弱して、取り返しのつかなくなるのを取越苦労するからである。
ある患者は、「五昼夜間、不眠が続けば死ぬる」という事を雑誌で読んで、非常な恐怖に襲われた事がある。
不眠そのものが苦しいのでなく、ただその結果が恐ろしいのである。
このような関係であるから、もし一度不眠が恐るるに足らぬ事を知り、さらに一歩を進めて、不眠を逆用して、
ますます仕事の能率をあげうるという事を体得するならば、そこに初めて心機一転して、ほとんど奇蹟的に、
従来の不眠がなくなるのである。これは言い換えれば我々の求めんとしたところは、眠りを貪るのでなくて、
実はよりよく生きんとする生の欲望であった、という事を自覚する事から起こる事である。
また例えば、赤面恐怖・吃音恐怖が、恥ずかしいことその事が苦しいのではない。実は人前で自分が、
立派でありたいのが、その目的である。もし恥ずかしいその事ばかりが苦しいならば、それは意志薄弱者であって、
神経質の恐怖症、すなわち強迫観念ではないのである。 丸木橋を波る時に、目的は、その目的地に達したいのであって、
足元を気にしないように、大胆になりたいとかいう事は、問題にならない、どうでもよいのである。仏教の目的は、
到彼岸であって、般若波羅密多心経の波羅密多は、この彼岸に達するという意味である。
思うに、この彼岸という言葉は、
この丸木橋から思いついた事ではあるまいか。
いま丸木橋を渡る時に、向こうの岸に着けば、桜は咲き、珍しい景色はあり、
恋しい人に会う事ができるなど、静かにその事を、心に見つめ思い巡らす時に、いつの間にか、足元の危ない事などは忘れて、
スラスラと橋を渡るようになる。
これがすなわち心機一転であって、足元ばかりを見つめるか、彼岸を見つめるかの転換である。
すなわち、これは目的と努力との相対関係であって、私はこれを、欲望と恐怖との調和という事で説明してある。
かくの如く、我々は、人生の丸木橋を渡るのに、足元を恐れないような無鉄砲の人間になるのが目的でなく、
彼岸に至りさえすればよい。坐禅や腹式呼吸で、心の動かない、すましこんだ人間になるのが目的ではなく、
臨機応変、事に当たって、適応して行く人間になる事が大切である。 (森田正馬全集 第5巻 P.518〜519)
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