● 「本来の欲求」や「目的」が何かわかりません。
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- 欲求は自分で探さないといけないものなのでしょうか。欲求や目的は自分でつかみ取るものだと思っていましたが、意外にもまわりをよく観察しているとやがて与えられます。
- 症状で悩んでいるときには真実が見えないし本来の欲求も見えません。最低限、目の前のことができるようになってから欲求や目的を考えてもよいのではないでしょうか。
- 今置かれた状況に応じて必要なことをやっていきましょう。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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一挙手・一投足の労も、これを面倒と思わないような人間に、ロクなものはない。
面倒という感じの強い人ほど、何事も早く軽便に、完全にしようとする工夫が起こり、発明をする人にもなる。
人は面倒と思ってはならぬ・勤勉でなくてはならぬとか、余計なおせっかいを考えるから、心に無理があり・
不自然になって、自然の感じが出なくなってしまう。素人が考えると、面倒と思うから、物をなげやりにし・
ズボラになるという風になる。
しかし、それは修養の心掛けのない・自覚の乏しい・極めて浅薄の考え方である。
ズボラの人というのは、実は物を面倒とも・なんとも思わぬ人である。例えば庭先に犬の糞があったり・
畳にインキをこぼしたりしても、それが汚いともいやらしいとも感ぜぬ者である。いやらしいと感ぜぬから、
そのままになげやりにしておいても、なんの気もしないのである。インキを綺麗に拭きとりたいと思ってこそ、
ますます面倒であり・じれったいのである。すなわち綺麗にしたいという欲望と・面倒という苦痛とは、
必ず常に正比例するものである。
面倒の感じが強いほどインキを拭きとる方法が発見されるし、一方には再びインキをこぼさないように、
これを用いる時々にふたをして、ズボラをしなくなるとかいう風に向上発展するのである。 神経質の人は、
ズボラやルンペンを見ると、物に拘泥しなくてよいとか・無欲恬淡でよいとかいって、これをうらやむ事さえもある。
しかし僕のところの修養ができて来ると、初めて自分が物に拘泥し・面倒がり・あれもこれもと欲望が強く、
絶えず心がハラハラとして、向上発展のカが泉のようにわいてくるという事を喜び・感謝するようになる。
食欲が乏しいと、なんとなく心細いが食欲が強盛なほど、元気が溌剌となるように、さまざまの欲望が強盛なほど、
多々益々弁じて、初めて生きがいのある事を覚えるようになる。
ズボラやルンペンをうらやんだ昔が、おかしくもなるのである。
自分が人から気骨があると思われ、偉い人と認められたい。もっともの事だが、それなら偉いとは、気骨とは、
どんなものか。ちょっと難しい。どうしてよいかわからない。六十円の背広を買いたいとか、柔道の初段になりたい
とかいえば、わかりやすいが、めどのない事には、どうすればよいかわからない。はらにカを入れてみたり・
そりかえってみたり・にらんでもみたり、なんだか変てこな薄気味わるいものになってしまう。
この仕事をやりたい・電話の装置を改良したい・こうもしてみたいと、一心になってくると、上役にも自然に、
自分の意見を主張するようになり、あるいは下の者からこうしたらどうですと、よい考えを持ってこられると、
「なるほど、そりゃうまい」という風に、朗らかな声が独りで咽から飛び出すようになる。物そのものになるとき、
初めて気骨や寛容も出てくるのである。
「内に省みてやましからずんば、千万人といえども吾行かん」とかいうような
勇気も、自ら出てくるのである。腹式呼吸によってそのカを得ようとしても、それはただの付焼刃たるにとどまるのである。
(森田正馬全集 第5巻 P.685〜686)
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