● 不安や恐怖は耐えなければいけないのでしょうか?
いつも耐えてばかりでよろこびが感じられません。
  • 感情は時間の経過と共に流れます。ただ単に耐えようとするだけでは難しいです。
  • 耐えるも耐えないもありません。事実はすでに耐えさせられています。 そういう不安な状態にさらされています。ことさら不安を大きく解釈したり表現することはないのではないでしょうか。
  • 恐怖突入するよりたんたんと目的本位の行動に入るようにしています。
  • 「耐える」というと何が何でも耐えようとしてしまいがちです。「耐える」というより経過、様子を見るというぐらいのほうがいいです。
  • 成功しなければダメという計算高い性格があるのではないでしょうか。
  • 森田先生の言われる「努力即幸福」は、目的を達成するまでの過程にひたすら努力するその姿勢そのものが幸福であると言われています。
  • やるべきことをやっていないから喜びを幹事られずむなしくなるのではないですか?ちょっと注意し観察したらいろいろなことが目につくはずです。
----- 森田先生のことば --------------------------
身体機能、精神現象は、時々刻々絶えざる変化流転である。
川の水が流れ流れて止まないようなものである。吾人の欲望や苦痛恐怖でも、決して此を三次元の空間のように、 固定的に実体的に物其ものとして考えてはならない。即ち欲望も苦痛も時間の第四次元により絶えず変化、消長、 出没するものであって、消して之に拘泥する事も、之を保留する事も出来ないものである。
即ち快楽苦痛も只快楽をを快楽と し苦痛を苦痛としてそのままでよい。殊更に快楽を大きくし、苦痛を軽くしようとしても追っ付いた話ではない。 それは不可能の事である。只時の経過に任せるより外はない。 (森田正馬全集 第3巻 P.112)

第一は、いやしくも見ゆるものを、見ないという事は出来ない。
それは氷をつめたいと感ぜず、不潔を不快と思はないと同様で、人の心の不可能の事実である。
第二の努力も、もとより不可能である。それは、「あきらめよう」とか・「平気になろう」とかいうはからいであって、 実は之によって、氷をつめたい・不潔をきたない・といふ不快感を除却しようとする目的に外ならない・という事に、 患者は中々気がつかないのである。苦痛を苦痛でないとして、平気になろうとする事は、根本的の思ひ違いである。
第三は、「忍受すべし」という「ベし」「ゾルレン」が余の「思想の矛盾」となって、却って忍受出来なくなるのである。
物質学者や・屁理屈の哲学者で、体験に重きを置かないような人は、徒らに言語の辻褄を合せようとして、実際が分らなくなる。 このような人には、中々余の説明が会得出来ないのである。
倉田氏も、「何等のはからいなく、其まゝに忍受するという事は、実に実際には出来なかった」といってある。 それは、この言葉があるために、自然に陥るべき「思想の矛盾」であるからである忍受しようという言葉さえなければ、 当然そのまま忍受して居るのである。三十九度でも・四十度の高熱でも、之を忍受するとか・しないとか、問題にするものはない。 降りかゝる運命として、当然其まま忍受して居るのである。
なお余が、患者を診察する時に、例へは鼻尖恐怖について、「苦しいのは、止むを得ないから、 忍受するより外に仕方がない」という意味をいってきかせる。そうすると患者は必ず「然からば忍受すればよいか」 と反問する事が普通である。この言葉が間違いの元になる。余は之に対して「忍受する事に、よいも悪いもない。
苦しい事は、とうてい苦しくない事はできないから、仕方ない」といい張る。ここが神経質の性格のものには、 なかなか会得が出来ないのである。
(森田正馬全集 第3巻P.282〜283)
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