● 症状に逆らわないようにするには?
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- 症状に逆らってしまうのは、それもしょうがないです。
- 逆らうだけの元気があるということです。逆らうほど苦しくなります。自分自身をそこまで苦しみに追い込まなくてもいいのでは……。
- 逆らっても逆らわなくても苦しいので、そのままでいるより仕方ありません。同じ苦しいなら目的本位に行動してみましょう。
- できないことを神経質症のせいにするとよけい遠回りになりなってしまいます。
- 溺れる者は藁をもつかまない(「つかむ」ではありません)心境
<ポイント> 嫌な事でも素直にいやいやながらやっているうちに、ツイツイ身が入って熱中するようになります。
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----- 森田先生のことば --------------------------
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昼間一日働いて、夜疲れて、眠くなり、彫刻をしても、身が入らない。
それはその時と場合とにおける心の状況であって、腹のへらない時に、食が進まないと同様である。
なんともしかたがない。この時に身が入らなくてはいけないとか、食が進まなくてはならないとかいって、
我と我心に反抗して、自分の心をやりくりしようとするのを「心が内向く」といい、「自然に服従しない」
というのであって、この反抗心が、心の葛藤となって、強迫観念の元となるのである。 次に「時間の来るのを待つ」
というのは、いやいやながら、よく入院規則を守るのであって、これを従順というのである。
それで自分の心に反抗せずに、素直に規則を守っていさえすれば、腹のへるべき時はへり、興味の起こるべき時には起
こってくるのである。仕事に熱がない。興味の起こらない時には、ただ規則に示された通り、他人の真似なり仕事の
ふりをしていてもよい。ただ規則に従っていさえすれば従順である。また腹はへらなくとも、イリ豆をちょいちょい
つまんでいるうちに、食欲がそそり出されるように、仕事でも素直に、いやいやながらやっているうちに、
ツイツイ身が入って、興に乗ってくるようになる。この辺の気合を体得してもらわなければならない。
盗心でも、起こるままに解放すればよい。
これに反して、ズボラではいけない、気を引き立てなければならないと、我と我心に対抗する時には、
それが心の摩擦になり、抵抗になって、例えば軽い下り坂の車を、自然のままにすれば、スルスルと
進んで行くのに、強いてこれに、つっかえ棒をしたり、抑えつけたりすれば、車も動かなくなるようなものである。
およそ強迫観念の心理は、我心の自然発動に対して、これに反抗しようとする精神葛藤である。
人前で恥ずかしがってはいけない、物を汚いと思ってはならぬ、死を恐れてはならぬ、腹立ち・盗心・悪心など
を起こしてはならぬとかいって、強いてその心に反抗しようとする時に、おのおのそれに対する対人恐怖・不道徳恐怖
とかいう強迫観念を起こすようになる。
例えば我々は、時と場合とによっては盗心も起こる。それはうまいものを見れば、食いたいと思い、
欲しいものを見れば、手に入れたいと思うと同様である。親鸞上人も、自分で、この心を自覚したから、
自分は悪人であり罪人であるといった。しかもそれを自分で治す事はできないから、阿弥陀様におまかせするといった。
これが親鸞の悟りであり・煩悩を解脱し・強迫観念から超越した所以であるのである。 例えば、いま私が金が欲しくて、
盗心が起こる。その心を否定しようとせずに、そのまま自由に解放しておく時には、いろいろの考えが起こる。
百円くらいのはした金は、盗んでもしかたがない。しかし一万円となると、ちょっとおっくうで薄気味が悪い。
どのくらいの程度に見切をつけたらよかろうとか、結局は盗んで罪を恐れる苦労をするよりも、我慢した方が特だとか、
さまざまに考えている間に「心は万境に随って転ず」で、いつの間にか、その悪心も流れさって、安楽な気持になっているという
風である。強いて自分の心を、無理やりに抑えつける必要は少しもない。
入院中の患者が、初めは仕事がいやでも、その心のままに、これを否定・抑圧しようとせずに、ボツボツやっておれば、
心は自然に、外向きに流転して、いつの間にか、いわゆる仕事三味になるという事は、容易に体験のできる事であります。
(森田正馬全集 第5巻 P.396〜397)
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