2005年9月
【前半】『対人恐怖の治し方』(森田正馬先生著 より)
  〜元気と思うのも本当ではない〜

第19日・・・先生は言われた。君はこの頃、自分の健康を忘れていた。健康と思い、病と思う、ともに病のしるしである。
前に君は、治療のつもりで、仕事をしていたが、この頃、働きたいから働いている。これが真の生活の湧き出でるところである。 ・・・私は今のところ、ただ赤面するので悲しいばかりである。恐怖ではない。先生の厚い情をありがたいと思う。
私は一層、勇気を出し、精進し、神から与えられた力の限りを発揮させようと思う。私は背後に、ある力強さを覚える。
夜は茶の間で、皆の人と世間話で、腹を抱えて笑いこけた。

第20日 坊ちゃんの運動会で、先生と三人で電車で行った。
何ともなかった。飛鳥山で大勢の生徒の群れの中でも赤くならない。彼らは皆きよいから、私の汚い心を直視しない。 青年は私と同じように汚れている。帰りに床屋によった。以前は、鏡の前で、真っ赤になったのが、今日はなんともない。 今日が一番元気の良い日である。
(元気になったのは、やはり病的である。また次の日にはその反動が来る。このようなことを知る間に、いつとは知らず、 何とも思わなくなり、真の健康となるときが来る。)

   〜苦痛を客観的に見る〜
夜Kさんを訪問した。3、4ヶ月程前に行って赤くなって天ぷらが喉へ通らず、涙の流れた思い出のある家である。
初の内は、 顔が熱かったが、先生から「自分の苦痛は人に打ち明けよ」と言われたままに、赤面の事を細々と話した。突然、 心が風船玉のように軽くなった。全然、苦痛がなくなった。赤面の話を弄ぶように、愉快に話した。
(自分の苦痛を客観的に取り扱うようになればよい。歌、文章、心理研究、皆それである) 数年来、真の愉快を味わった。始めて心から笑った。心を苦しめ抜いた鎖が取れた。実に有難い。
私はどれだけ先生に感謝してよいか。 (喜びにはまた、苦痛の反動がある。この喜びが有難いのではない。この主観を離れ、先生を思わなくなった時、 真の健康なる独立心が出来る)
・症状が出た出ない気分を問題にしてたが、今は仕事で注意されても激しく落ち込むことが少なくなった。
・元気だと思える日が少なくて元気な日を喜んだ。今はもう元気か、元気でないか考えなくなった。
・赤面恐怖も、気にするかしないかで神経症への道か否かに別れる。赤くなることを、おかしいと思い、 治さなければ普通の人にはなれないと思いこむのが、神経症。
・(文中p34)昨夜まで、家内に漂っていた陰惨な空気は、サラリと取れた。──(夜が明けたから)  このように感情に流されると事実を歪めて見てしまう。先生のコメントはただ、事実を言っている。
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【後半】森田正馬全集5巻

◆P.128 人間味を離れて反対の極に進歩する
「先日、我々は村山貯水池へ、ピクニックをやった。こんな時でも、人も歩くから、 自分も我慢してあるかなければならないとか、時々気晴らしもしなければいけないから、 元気を出さなければならないとか考えれば苦しくてたまらない。これを心の内向きといって、 自分の事ばかりを気にしている。
・自分の内面に意識がいって、周りの景色が見られない。
・感情をコントロールできない。
・自分のためになる事を、強迫的にしようとしている。昔は物事に熱中できたけど、今は出来ない。
・新しい場所へ行って気持ちを変える目的を持ったほうが変わる
◆P.130 強いて貧乏になる奇人もある
「一般に言えば、貧乏も自ら位置を低くする事も、ごく必要な境遇の選択でありますが、 いたずらにこれにとらわれてしまえば、変人になる事がある。」
・お金がない方が、ハングリー精神がわく。
・だからといって、自分のお金を無くして、無理に貧乏になるのはおかしい。
・自分をステップアップさせようとして、その境遇が必要ならすればよいし、必要なければしなくてもよい。
「少しも努力を自覚しない。ただ心のはずみのままに、何かをやっているだけであります」
・はずみとは・・・?
・家事をしているうちに、どんどん手がでてくるこれがはずみである。
・弾みのまましなければと、意識してしまう。
・はずみでできない。とりあえず手をだしていく。
とじる