2004年5月
◆懺悔について
 自分で悪いと思っていることをわびればいいのですか?
・ありのままに自分のことをいいます。
・懺悔したら治るんだとべらべらなんでも話すのは懺悔とちょっと違います。しゃべれば許してもらえるというのも違います。
・症状を真正面から受け止められるのが懺悔です。例えば「恥ずかしがりやだ」というのをその通りだと事実として認めることが懺悔です。
・今の自分の状態を認めるのはつらいです。認めたくない自分がいて、認めれば負け犬になってしまうような気がします・・。
・森田先生は自分が記憶力が悪いと自覚して日記をつけるようになりました。そのまま事実として認めたから行動されたのだと思います。
・集談会などで治すために自分の症状のことを発表してもいいのでしょうか。
・治そうとしての発表でもいいと思います。例えば恥ずかしがりやであるとか、発作で電車に乗れないとか、 今薬をのんてせいるというようなことでも心にわだかまりがあると言えません。発表できたなら、発表できたという 事実を大切にしてください。
「生活を正規にせねばならぬ」とか、「精神 を常に緊張していよ」とか、そんなことは抽象的のことで実際に は何の用にも立たない。ここではその事を例えば「7時間以上寝てはいけない」とか「終日戸外にいるように」 とかいう風に具体的に考えて、それで立派に生活正規、精神緊張の結果が得られるのであります。これを抽象的 に言うようでは、私のいわゆる思想の矛盾でかえってその結果は思うとおりにならないのであります」 (森田正馬全集 第5巻 p.90)
抽象的なのはいけないのですか?
・例えば「勉強しなさい」と言われてもどうしたらいいかわからないけど「本の何ページから何ページを読む」と 言った方が具体的でわかりやすい。
・「どの本を読んだら治るのですか」と都合のいいことをきく人がよくいますが、森田はそういうものではありません。  森田先生は「7時間以上寝るな」「戸外にいるように」と具体的に指示されて、患者さんはその通りの動きをしました。
・症状のほうにすぐ振り向いてしまうのでぼんやりとした時間をつくらないほうがいいです。  ぼんやりしてると活動しないで不安におののいてるだけになってしまいます。ゆとりをもってのぞみたいと思う けれどもゆとりではなく、不安発作や予期恐怖になっています。何かをしているときよりもほっとしたときに 不安発作になりやすいです。
対人恐怖の人も仕事中に対人恐怖になるという人は仕事がちゃんと手に着いてないからです。 不安や症状にふりまわされてる状態はある意味でゆとりがあるということです。
◆忙しく動けば治るのですか?
・忙しくすればいいというものではありません。
・これだけしたら治るだろうというふうに見返りを求めてもダメです。努力した結果が幸福になるのではありません。努力その  ものが幸福です。いい結果が出ても出なくても努力そのものをを大切にします。結果を求めません。結果主義ではありません。
・結果主義でなければ、一生懸命やったんだという満足感を味わえます。 いい結果がでなくて「なんで私だけいつも・・」と思うような人は森田をわかってない人です。
◆「この病は治った人は皆よくわかる通り、実は病ではない。神経衰弱ではない。ただ主観的のもので精神的のものである。」 (森田正馬全集 第8巻 p.89)
・治ってない人は病だと思っている。
・病気でなかったら何をしますか?やってみた結果病気でないとわかります。
・病気でないのに異常と感じてしまい治療しようとしています。
・健康な人だったらどんな生活をするかというのがスタートです。  悩んでる症状は仮病のようなものです。でも執着したりとらわれてるから病気のように思いこんでます。
・治してから動こうとするのではなく健康人として行動します。恐怖突入するというのではなく、1つ1つ具体的 に動いていけばいいです。
・例えば目の前にある時計でも直径何センチというのは事実としてありますが、それぞれ見る人の主観が入るので 見る人によって時計はそれぞれ違って見えています。「はずかしい」というのもその人の主観です。人それぞれ違います。 主観ではなく事実は何ですか?
・不安神経症の人は不安神経症のことが書いてあるところだけ、対人恐怖の人は対人恐怖のところだけ読んで、 大切なところを読み飛ばしています。全体バランスよく読みます。森田を読んで人生を具体的にどう生きていくかが大切です。
とじる