2003年9月
◆視線が気になって困っています。
・私は人数によって気になったり気にならなかったりします。
・一度目が合うとはずすタイミングに困ってしまいます・・。
・気になった時はあまり相手の目を見ないようにしています。
・よく視線が気になるのですが話しに夢中になっているときには気になっていないようです。
・視線が気になりだしたら他のことに注意を向けるようにしています。
・気になったときはやりくりしないほうがいいと思います。 気になるものはどうしようもないし不快なものは不快です。
・自分だけがきになっているではなく、みんな大抵いろんな場面で困っているようです。
◆「修養という事は、実行の復習であって、思想の規定ではない。
撃剣のようなもので考えると、最もわかりやすい。これは相手の隙間に打ち込み、 受け止めるには、こうするとか思想判断する余地は少しもない。打つもはずすも、 そこに間一発もない。いわゆる電光石火の機がそれであります。
少し話しが脱線しましたが、つまり思想を排し、直覚と実行とから出発する、 という事を協調するにとどまるのであります」(森田正馬全集 第5巻 p.70より)
直覚は鍛えることができるのですか?
・こうしたいなと思ったら実行したらいいのでしょうか?ここしたらいいと思うことが 的はずれのときがあるのですが努力すれば的はずれにならなくなるのでしょうか?
・実行を通して事にあたっていけば経験もできてきます。たとえば大工さんでも経験をつんで修養が必要です。
頭で考えただけの直覚ではなく経験があれば直覚もするどくなってきます。
◆「ここで最も忌む事は、思想の矛盾もしくは悪知と称して、我々の行為を一定の型にはめる事である。 実行は常にそのことごとに当たって、実際でなくてはならない」(森田正馬全集 第5巻 p.70より)
すぐに一定の型にはめた行動になってしまいます。
・一定にしないと保てない何かがあるからそういう動きになっていのではないですか?一定にしないといけないのですか?
・自己観察ばかりして他己観察ができていません。自己観察の結果型にはめてしまいます。
・まわりを見ずに自分を一定に保とうとしているのだと思います。作業や動きの中でまわりを観察できたら型にはめずにすみます。
・森田を学んで「人のためにつくせ」「自己犠牲は善ではない」というのをきいて、矛盾しているようでよくわかりませんでしたが  経験するなかで何が何でも人のためにする必要はないということがわかりました。臨機応変が大切です。経験をつまないとわかりません。
◆「憤怒して喧嘩をしようと思っても、これをそのままに堪えてて三日もたてば、その感情も自然に消えて、喧嘩をする機会もなく  なるようなものである。この二つの法則の関係が込み入っていて、はっきりわからなかったが、今夜の先生のお話で この関係がよくわかりました。森田先生 つまり感情は自他のために害になる悪いものは、これをそのままに迎えて、 自然に消滅させるがよいし、良い感情はこれをしばしば表現して、これを心に深く印象して修養して行くべきものと思います。」 (森田正馬全集 第5巻 p.70より)
ある人にたいして憤怒してしまう回数が多くて、ずっと堪えてるような感じになりその人のことが許せなくなってしまいます。
・けんかにならなかったらそれでもいいのでは・・
・怒りの感情にまかせて言うのではなく相手に理解してもらえるような言い方で腹がたっていることを相手に伝 えたらいいのではないですか。
・自分の性格が災いして許せない人が多くなっているのかもしれません。自分は腹を立てやすいんだという ことをわかっておいたほうがいいです。怒りは発する人と受け止める人がいます。馬耳東風ではなくちゃんと受け 止められる人になったほうがいいです。
・怒りの感情をなんとかしようとするよりも目の前の仕事などに手をだしたほうがいいです。建設的なことに目を向けましょう。
その場をされば次のことに目が向いてるようになっていれば三日もがまんせずに次から次に感情も流れているはずです。。
・自分が腹が立つと思っている相手は、まわりの人もいろいろ腹をたてているかもしれません。まわりの人はどんなふうに堪 えてるか観察してみては。
とじる