◆「最も苦しかったのは窃盗恐怖で、往来で煙草の吸殻が落ちていると、
これを自分がとった人に思われはしないかと恐れた。」「患者は家のそばを牛が通れば、
自分がその牛を盗んだのではないか。お寺の鐘のの音を聞けば自分がその鐘を盗んだので
はないかと恐ろしくてたまらない。」(森田正馬全集 第5巻p48.49)
窃盗恐怖や強迫観念について
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・買い物をしているときに買わずに店を出ると盗んだと思われるのではないか、物が
こわれたり盗まれる事件が身近にあると自分が盗んだと思われるのではないかと思って
しまうようなことも誰しも感じてしまうようなことかもしれませんが、その不安感
を消そうととらわれて突き進んでいくと強迫観念になったりするのだと思います。
・神経質者の場合は、自分が犯人ではない、こんなことを気にするの馬鹿らしいと
思いながらもとらわれている状態です。妄想の場合は自分が犯人でないのに犯人
であることを実際にあった事実だと思っています。
・強迫観念は自分を観察していてもなかなか観念から抜け出せません。
自分のことは一番わからない。人の振りみて我が振り直せで自己観察より
他の人を観察したほうがいいです。
・この人はこういう動きをしているから健康なんだなというふうに、
他人の動きを見てその動きを自分もすれば健康になります。
・悩みの最中にいるときは、関心のあることはめざとくみつけるが関心のない
ことは「こんなことやっても〜」と手を出さないので幅がでてきません。
・観察だけではダメです。健康になりたかったら自分も健康な人の動きをして、
まねしてみたらいいと思います。例えばお金持ちになりたかったらお金持ちの人の
動きを自分もする・・。朱に交われば赤くなるで環境が必要です。神経質症で
森田を学ぶ時もよくなった人を見てその人の動きを見たらいいです。
・やってないことでも実際に人から嫌疑をかけられてしまったりして、
そのことがいつまでも気になったりします・・
・やってないことでも人から疑われてしまうということもよくあることだと思います。
でもとらわれない人はその場その場でおさめていきます。疑われて苦しむのはみんな
いっしょですが後の尾のひきかたが違います。何週間たってもそのことが忘れら
れずとらわれているというのは、その時の状況を引き延ばしているだけで、
そのことを考えても時間の無駄です。事実は疑われ中傷されたということだけです。
そういうことがあったというだけです。
・映画のワンシーンが心に焼き付いても、映画が終われば現実の生活にもどっています。
あの時ああいうことがあった、こういうことがあったというだけでその時で終わりです。
人のことを第3者的に見るように自分のことも第3者的に観察できるようになるといい
と思います。
・過去を背負うのではなく、今、今、・・です。過去を許せないのは不幸です。
自分を傷つけるのはやめたほうがいいです。
・人から疑われて中傷されても自分がやっていないのであれば勝手に言わせて
おけばいいのではないですか?言った人もすぐに忘れて次の展開に移っていることが多いです。
いつまでも執念深く恨むより、許してあげる心も大切なのではないでしょうか。
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◆「ここで皆さんが、誰でも自分で神経質に悩まされた事実を詳しく説明すれば、
これを聞く人の深き内省に引き比べて、初めてなるほどと身につまされて思い当たる
ところがあり、同感し共鳴する事ができ、平等観の上に立って、互いに妥協し、
融通し和合することができるようになる。 これに反していたずらに人の苦悩を笑い、ただ
自分ばかりが人の知らない苦痛に悩んでいると、互いに相反目する時に、自分の神経質は
ますます憎悪するばかりである。」(森田正馬全集 第5巻p50)
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・しゃべること、書くことで客観視することができます。
黙ったままでいると妄念になってしまいます。
・体験記などでも、あのときはそう思っていたけど、ちょっと観念的で違っていたな・・
というふうに時と共に変わります。みんなに伝えるときには客観的にしないといけません。
自己内省も空想のようになってしまいます。 しんどかった、苦しかったという表現も実際
に事実としてはそんなに深刻なことではなく、自分が誤った考え方、認識をしていた
からだということに気付きます。不安が実像とししてあったのでしょうか?
虚像ではないですか?不安も空想のようなものです。なぜ想像におびえているのですか?
正体、事実を見ないといけません。
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