◆社会的にあまり能力が無く、いいところに就職できそうにもありません。
とりあえず働いてはいるのですが将来のことを考えると不安になります・・・。
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自分にしかできないようなことがなにかあるのではないか、なければいけないのではないか
と思ってしまいます。いろんなことに手をつけても、どれも中途半端になります。
自立したいし、何か資格をとろうかと思ったりもしています・・。
高望みは無理だとわかっているのですが、やりたいことがいろいろあって、方向性も
バラバラで具体的にどういう行動をしていったらいいかわかりません。いろいろと
かじってみるのですが続かないし、これが本当に自分がやりたいことだとも思えません・・。
脱線してしまってもいいので自分の好きなことに手を出していったらいい思います。
とりあえず資格をとればなんとかなるという考えは危険な部分もあります。
もちろんある職業につくには絶対必要な資格というのもあります。
資格マニアのような感じでいろいろな資格をいっぱい持っている人もいますが、
資格を取れば仕事をもらえて安定した生活ができるというほど甘いものではありません。
資格がなくても現場のたたき上げのような、目と手足を使って実際に経験のある人のほうが役に立ちます。
資格を取ることが好きだったり、どうしても必要ならもちろん資格をとればいいですが、
資格があれば必ず仕事ができるというものではありません。
資格をまったく持っていなくても、自営で仕事に困らない人もいます。好きな分野や経験(例えば、パソコン、経理、財務など)に長けていたら、実際に役立つ動きができます。資格などまったくなくてもお客さんのニーズに答えることができすぐに役立ちます。
資格がなくてもいろんなことができます。熱意があればできますし好きなものほど続きます。
好きなことや興味のあることを徹底的にやればいいのではないでしょうか。
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◆「森田のゴールは事実唯真」という話を聞いたのですが、私は「自分を知る」ということ
を自分のゴールにしたいと思っています。
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自分は「傲慢だ」と気付いたら、その傲慢なままでいいというのではなく、傲慢さをなくして
いこうとするのが本当だと思います。
自覚するということが大切なのではないでしょうか。
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◆「重役に会うのに、その前日には予期恐怖があり、その日になれば不安がしだいに高まり、
重役室の戸をノックする時には、もはや絶対絶命になる。これは常に普通人の心理であります。
山野井君がこれをもって普通の人には想像ができないかもしれぬと断るところは、まだ少しく君の
修養の不足するところといってよいかと思う。人はまず誰でも腹がへれば食いたい、目上の人の前では
恥ずかしい。これを平等観という。 「雪の日や、あれも人の子樽拾い」という時にたとえ酒屋の小僧でも、
寒い時には苦しいと観ずるのを平等観というのであります。
それを自分は寒がりであり、恥ずかしがりやであるから、自分は特別に苦しいというのを差別観という。
この差別をいよいよ強く言い立てて、他人との間に障壁を高くする時に、ますます人と妥協ができなくなり、
強迫観念はしだいに憎悪するのである。また例えば吾人は、眼が横に二つついている事は平等であるが、
その眼のつきぶりが、実に千変万化であって美人もできれば醜人もできる。これが差別である。
しかるに吾人はただこの差別のみ強調して観ぜずに平等と差別の両方面を正しく批判するときに、
「事実唯真」を認める事ができていたずらに自己中心的の小我にとらわれて、強迫観念になるような事
はないのであります。」(森田正馬全集第5巻 p.40)
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心の葛藤を没却できれば治りますが、強迫の人はなかなかそれができないのでは。
悩んだ年数は関係ないです。いかにきちんと森田の受け取り方をするかということが大切ではないでしょうか。
書痙の治った人が会社重役に会いに行く状況や心境をこと細かにくどくど書かれています。
その状況がいかにもすごいできごとのように表現していますが、こんな表現は差別観があるという
証拠です。重役に会うのは誰でも緊張しますし当たり前のことです。
誰にでもあることを特別視しているということは差別観で見ているということだと思います。
強迫がとれないということは差別観が残っているということです。きちんとした森田の受け取り方が
できていない、理解度が足りないということではないですか?
あくまでも自分は特別に苦しいんだと言い張る人は理解度がたりません。神経質の人が「不全感がある」
と言いますが、不全感が あることは大切ですし普通です。その普通のことを自分の中でわざわざ
2倍3倍に膨らます必要はありません。森田の本質的な部分がつかめるかつかめないかが大切なのではないでしようか。
自分が特別に苦しい、特別に苦しかったという人はちゃんと事実が見えていないのではないでしょうか。
(差別観がなくなっていません)
差別観があるということは人情味がないということです。
人情味のない人が社会で活躍すると、人を人とも思わない恐ろしい状況になります。
そのまま成功してしまうと独裁者のようになってしまいます。人情味のない差別感のある人は「これが正しいんだ!」というような部分を頑と持っていて、人に一歩も譲れなくなってしまいます。「自分は傲慢なんだ」とまいったふりをしたとしても実際にはまいっていないから相変わらず苦しむことになってしまいます。
事実唯真という言葉がありますが、事実からはすぐに離れてしまいやすものだと思います。
「これは正しい」「事実である」と思ったことでも、気がつくととんでもないところを
一人歩きしていることがよくあります。まわりの状況がどうであるか、自分のおかれている
状況がどうであるか、その時々常に事実がどうであるか見ていかないといけないと思います。
強迫観念で苦しんでいる人は素直さが足りません。「できない」と言い切る頑固者です。
強情さが強いと煩悶も強いです。にっちもさっちもいかなくなる状態にならないと自分の強情さなど
を知ることはできないものですし、なかなか容易ではありません。
鼻先がチラチラ見えるという強迫観念の場合。治っても相変わらずチラチラしています。
チラチラしているけれども気にならないというのが治った状態です。チラチラしている
というのが当たり前で見えるということ自体は変わりません。
誰でもみんなしんどい思いをしています。「自分は人と違うんだ」という考えはこわいです。
自分にも人にも優しくならないと差別観はなくなりません。
森田先生はものすごくがんこでわがままな人のようでしたが、事実から離れてしまうことは
こわいことなんだということはよくわかっていた人なのではないかと思います。
差別感を痛感した人だと思います。「事実ではない」ということがわからなくなってしまう
状態にはだれもが陥りやすいものだと思います。
対人恐怖の人が「スッキリしない」と言い張るのは「全く人のことが気にならなくなるのを求めている」
ということにもつながりおそろしいことです。生活できるようになり、気付きがあればいいですし、
恐怖心があってもやるべきことがやれたらいいです。
こわいものはこわいですし不必要に恐れることはないです。
こわいということを殊更歪めないほうがいいです。
こわさを無くそうとすると事実から遠ざかります。
症状などに「敏感」になっている時は「鈍感」になっているというのと同じことです。
敏感になっていること以外が全く見えていないか、まわりを観察できていなという状況です。
「治る時期がこないと治りません。」
冷たい言葉に聞こえるかもしれませんが、努力しながら待っていたらそれでいいということなので、
優しい言葉だと思います。
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