◆昔から頭痛やめまいがあり、悩んできました。森田を知り、勉強するうちに、自分の場合は
精神的なものからきているということがわかってきました。しんどい期間があまりにも長かったので
健康な状態がどういうものだったのかがよくわからなくなってきてます。
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今の状態を健康だと認めたほうがいいのではないですか?
病気があっても病気を忘れ、とらわれがあってもとらわれを忘れ、症状があっても症状を忘れという状態で、生活を押し進めているのが森田的だと思います。
身体のことなどを気にしやすいという性格は一生そのままだと思います。
熱中してテレビを見ている時は、話の内容に見入っているのでテレビのまわりの枠は見えていても意識していないものです。神経質症の人は枠を意識しながらテレビを見ているというような状態だと思います。無我夢中になれる、入り込める状態、打ち込む姿勢が大切です。
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◆好きなガールフレンドがいて2人だけで話し合う機会を持ちたいのですが、緊張して、
態度もぎこちなくなりうまく話すことができません。どうすれば、うまく話すことができるよう
になるのでしょうか?
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自然な態度というものがとれるものなのでしょうか?ぎこちない態度になるほうが自然だと思います。
不可能な挑戦をしようとしてるのではないですか?
神経質の人は、誰にでも感じるようなことをサラッと流せません。
同性の人や、特に意識していない人でもぎこちなくなりしんどくなります。誰にも嫌われたくないとい
う欲望が強いのだと思います。「すべての人に好かれて、誰にも嫌われずに」ということは無理だとわ
かっているのですがその欲望は消えません。
まわりの全ての人に好かれたら困るのではないですか?全ての人に好意(認められたり)を持たれても、
全ての人に対し、好意を返せないから、全ての人に好かれたいと思わないですが・・・。
人と接して、ぎこちなくなったり、嫌われたくないと思ったときに、「みんなに好かれるわけはない」
というふうにその場をくぐりぬけることも大切です。しかし、くぐり抜け方として、ちょっとその場で
用するという感じのほうがいいと思います。人から好かれたいという部分は残しておいたほうがいいです。
「みんなに好かれるわけはない」「好かれなくてもいいんだ」というふうに開き直った感じになり、
そういう部分ばかりになってしまうと非人間的になってしまいます。例えば「完璧を望んではいけない」
と言ったりしますが、どうして完璧になりたいのかということを考えると、生きていく為の保存欲求の
ようなものなのではないかという気がします。
人から嫌われたり認めてもらえないと、腹が立ったりひどいときには相手をなぐってやりたいと思って
しまうこともあります。(自分の中にはもっと温かい血が流れています)腹立ちやくやしさだけを見て
欲望が見えてない状態になっています。氷山の一角だけを見てしまうと、その一角だけを取り除こう、
無くしてしまおう、症状を治そうというふうになってしまいます。
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◆幼弱性、無邪気さについて
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神経質の人(女性??)は冷たいのではないでしょうか・・。
言葉や表現が足りないから冷たく感じるのでは・・。
どうしていいかわからない部分が多いから冷たく見えるのでは?
男性(??)は幼弱性が強い・・・。
森田の理論学習では幼弱性はいけないといいますが、幼弱な部分も大切だと思います。
幼弱性が全くなくなったらとてもつまらない人間になってしまいます。
無邪気さを敵視しないほうが良いです。どういうことをしたらどうなるかというのを日々
刻々楽しんでいきましょう。
無邪気に一石を投じるという動きが大切です。いろいろな場所で一石を投じていきましょう。
極端に礼儀正しい人は型にはまってしまって慇懃(いんぎん)無礼な人が多いです。
素直になって、純な心になれば一皮むけます。「人からどう思われるだろう」などあれこ
れ考え込んでしまうから、素直な心、純な心になれないのです。
集談会などでは「学習しなければ!」という感じになってしまいがちですが、ちょっと違う
と思います。無邪気さの部分も大切にしたほうがいいと思います。
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◆森田の全集を読んでいると、「たちどころに治る」というようなことがよく
書いてあるのですが、そういうことは実際にあるのですか?
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「たちどころに治る」というのは動きを重視した(動ける状態)言葉だと思います。
たちどころに行動できるようになる。とらわれがあるけど動けるじゃないかというのが森田の治癒像です。
感情がスッキリして、症状が消えてしまうのが森田の治癒像ではありません。
行動できるようになり、自分のことは置いておいて、人の為にも何かできるようになれば
「全治した」といったらいいのだと思います。「行動はできたけど・・でも・・しかし・・
感情がスッキリしない」などの言葉はいりません。
神経質者は観念とたわむれてしまいます。観念を症状としてなんとかしようとするからいつ
までたっても治りません。症状は「自分は何を目当てに生き長らえてるか、ということの
自覚がたりないから起こる事(森田正馬全集5巻p37)」です。
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◆「赤面恐怖の人はまず自ら顧みて、自分は成功したいとか立派な人間になりたいとかいう気があるか、
ないかということを自覚すべきである。この事ももとより神経質の悪知で観察する時には、自分にはそんな
欲望がなくなったように思い違える事もある。実際神経質が深く自己内省する時には、自分の腹がはっているか、
へっているか、食欲があるかないかという事さえわからなくなる事があるのである」(森田正馬全集5巻p37)
自分の欲望がよくわからないのですがどうしたらいいですか?
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症状をなんとかしようとそのことばかり目が向いているから欲望のほうが見えなく
なっているだけだと思います。
最初はりっぱな人間になりたいという思いがあったのに悪知が働くからりっぱな人間にな
りたかったかどうかさえもわからなくなってしまいます。
対人恐怖や赤面恐怖がおこって悩むのは余分なことです。というよりそんなことで悩むより
やるべきことが他にもっといっぱいあるはずです。
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◆「今この自覚という事について、少しく注意すべきは事は、自覚はただ自己の本性を正しく深く細密に観察認識しさえすれば、それでよいのである。やりくりの手段はいらない。ただ認めさえすればよい。これが最も大切な事で人の思い違いやすいところである。自分は怠けてはいけない。読書の興味を持たなければならない。人前に出ても大胆にならなければならないという風に、人間の小知悪知を弄することが最もよくない事である。」(森田正馬全集5巻 p36〜37)
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「でも・・」「しかし・・」「もっと〜できれば」などと思ってしまいますが
「ただ認めさえすればよい」ということが大切です。
ただ観察して、認めて、見たままを感じておくだけでいいのに、「このままではいけ
ない何とかしなければ」と考えてしまい悪知になってしまいます。
ちょろんと入ってそこに身を置けばいいだけなのに、その先を求めようとしてしまったり、
ちょろんと入る前に自分で先にやりくりしてしまうからややこしくなります。
「認められたい」という欲望が自分にあると素直に認めたらいいのに「自分はどうせ
実力がないんだ」「認められなくてもいいんだ」というふうに開き直ると悪知になってしまいます。
「自分はどうせバカだ」と開き直ってみても「自分は偉いんや」という思いも自分の中に
はあるので葛藤になってしまいます。
自分の実力を客観的に見てそれにいい悪いを付け加える必要はありません。
客観視するだけでなく、「なんとかしなくてはいけない」と症状のせいにしてふんばって
しまうからしんどくなります。
会社で社長がやる気のないのを見て、自分もやる気がない部分もあるし、
「まぁいいわ」と以前は腹も立たず許せたのですが、今は社長のやる気のなさを
見てものすごく腹立たしく思います。
神様のように悟った人間になりたいと思いすぎるのはよくないのではないかと思います。
ふつふつといろいろな感情がわいてくるほうが普通ですし、わいてくることは不思議ではないと思います。
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◆会社の仕事など、問題意識を持ってやりたいのですが、問題意識を持てません。
自分は事実が見れない・・。事実を見る目がおかしいのだろうか・・?と悩んでしまいます。
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「事実を見る目がおかしいのでは」という見方は悪知です。
はからいたくなってしまうという要素があるのだと思います。
治りたい、よくなりたいという思いがあり、治癒像が違うのではないですか?
よくなるとかならないとかは関係ありません。動きや行動で実証すれば良いだけのことだと思います。
「やりくり手段はいらない、ただ認めさえすればいい」と言いますが、やりくり、
手段も容認できる世界というのもあります。(ゆとりにつながります)
しかし、神経質の悪知で観察して、欲望が無くなったように感じたり、食欲があるのか
無いのかもわからなくなってるような状態、迷いの中にいる時には「ただ認めさえすればいい」
という原点に立ち戻りましょう。
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