2002年3月
◆自分と違う症状の人の気持ちがわかりますか?
難しい文章を理解しようとするほどますます解らなくなりどんなに読んでも理解できず、 恐怖にとらわれ、煩悶をおこし、それで試験の成績はよかったという読書恐怖の人の苦しさがわかりますか? 片っ端から、理解して記憶しようとするからしんどいのだと思います。完璧に理解しようと するからしんどいのは当然だと思います。
『先生に問えば「理屈をいってもわからないから、ただ働きさえすればよい」といわれ、 はなはだ物足らなかったけれども、家に帰ってもしかたがないから、そのままに実行しているうちに、 年を経てある日、机に向かって坐っている時に、翻然とさとるところがありました。ようやくにし て普通の人となることができました』(森田正馬全集 第5巻p35)
この人は本を楽に斜め読みできるようになったのではないと思います。難しい本は難しい、読むの はしんどし骨がおれるものだということがわかったのではないでしょうか。
例えば吃音恐怖の人の場合、自分の思っていることをスラスラとよどみなく一言の間違いも無し にしゃべりたいという思いが強いのだと思います。誰でもそんな風にしゃべることはしんどいですし、 なかなかできるものではありません。一言の間違いも無く思い通りにスラスラしゃべることはしん どいんだということがわからないと、いつまでたっても本人は「治らない」「治らない」と言い続 けることになるのではないでしょうか。
不安神経症の人も対人恐怖の人もすべて強迫的な部分があるのではないかと思います。 「他人の強迫観念の心持ちがわかるようになれば、自分の苦痛も治るようになる。その心持 に共鳴し同情することができれば治る。これに同情しない上に、さらに反感を持ち、嘲笑して 成績が四番で、それで読書できないという人の気が知れない、あまりに馬鹿馬鹿しい、自分の ような不眠や赤面の苦痛などは比較さるべきものではないとか、頑張るような人は、決して 治る事のできない人である。」 (森田正馬全集 第5巻p35〜36) 他人の症状に共感しないということは、なぜ症状で苦しんでいるのかがよくわかっていない ということです。しんどいことをするのはしんどいんだということがわかり腑に落ちると治るのだと思います。
今まで楽に生きようとばかりしていたのが、苦しい時の過ごし方がわかるようになりました。
◆私の場合は本を読みたいという思いはあるのですが、読めません。ずぼらなだけなのでしょうか・・?
時間が足りないという思いがあったりすると圧倒されてしまって読めないのではないですか?
人に負けたくない、さげすまれたくないという思いが強いとあせってしまって読めなくなったりします。
難しい本はあせって読んで理解できるものではないとわかりゆっくり読むようになりました。 
やさしい本なら斜め読みできますが、例えば森田先生の本などは難しいので時間がかかってしまいます。
読んでいて内容が深いなという思いはあるのですが、自分の中になかなか入ってきませんでした。
写経のように書き写して覚えました。 治ろうとする欲望が強かったのだと思います。自分が神経質症なら治ってまっとうな人間になれるの ではないかと思いました。
森田先生の本を読んで「すごい」と思える人は神経質としての感性があるのかもしれません。
◆『初めはお世辞でも申し訳でもよいから「なるほど貴方も苦しかろう」といえばよい。 これが外面から形の上から治す法である。これによって例えば南無阿弥陀仏と正銘するほど御利益がある。
それは少しもその訳合いはわからなくともよい。「良き人の仰せに従いて念仏申すまでの事なり」と親鸞上人 がいってあるように、ただその通りに口でいいさえすればよいのである。
しかるに神経質は愚直で強情であるから、なかなかあっさりとそうはできない。 まず自分でなるほどもっともである、それに相違いないと会得するまでは、決して虚偽のお愛想などはしない という風に正直過ぎるのでのである。前のを他力の法といえば、この方はいわゆる自力的であって、 自分が理解・納得しなければ決して承知しない。他力の法が四十日で治るとすれば、自力の法は五十年かかっても、 なかなか治るものとは請け合いができないのである。』 (森田正馬全集 第5巻p36)
他人から「こうしたらどうか」とアドバイスをされても自分で納得しないとなかなか アドバイスをきこうとせず、自分の考えや行動を変えようとしません。自分の考えや 行動パターンを押し通すから苦しい状態になっているのに自分の考え方にしがみつい てしまいます。なかなか人の意見に任せてみようという態度になりません・・。
森田の本を独学で読むだけでは難しいので、集談会などで教えてもらったり人の話も ききながら行動していったほうが良いです。
治すために自力突破しようとしてしまいがちですがそれだけではなかなか治らないと思います。 自力から他力の状態にひっくり返らないといけないのではないでしょうか。
自然に任せるとかバカになるというような状態、賢さを捨てないと他力にはなれないと思います。
「理屈をいってもわからないからただ働けばいい」といわれてその通りに従ったというのは、 自力から他力にひっくり返った状態だと思います。
「ただ働けばいい」というのを自力でわかろうとするのは難しいです。
◆人から教えてもらうと治りがはやいと思うのですが、それは人に依存することになる のでしようか?森田先生はどんな風に患者と接していたのでしようか?
森田先生は患者に依存させなかったのではないでしょうか。「水やりをしたか?」 「掃除をやったか?」「今は〜をする時間」「仕事は自分で見つけろ」とかいっけん とんちんかんな指図ばかりしていました。今それを実行すればその意味がわかるとい う風なやりかただったのではないでしょうか。
入院患者も、なんかよくわからないけど入院中の何十日間だけは森田先生の言うこと をきいて辛抱しようというような感じだったのかもしれません。
森田先生は質問に答えてくれないけれど、言うとおりに実行したら治ったのだと思います。 理論がわかって治って退院したのではなく、動いて体得し、退院後形外会に出席するなかで、 理論、理屈がわかったのだと思います。
万策つきた状態のほうが他力になりやすいです。他力になるには、それまでに自力で頑張る 部分も必要です。
あきらめない人のほうが立ちなおるのは速いです。自力で突破できずもう ダメだと万策つきた人ばかりが森田先生のところに行ったので、すぐに治る人も多かったの ではないかと思います。
◆上司などから「ああしろ」「こうしろ」と指図されると、都合のいいように使 われていると思ってしまいます。納得しないとなかなか上司に従えません。他人の話を聞 いてるつもりなのですが指図する意味をきちんときけてないのかなと思ったりします・・。
上司は、何か良い部分、すぐれた部分、経験などを持っているから課長や部長になっているのだと思います。 上司の言われるままに実行するのが一番楽です。 
従うのは、他人に動かされているようで嫌です。自分の考えや意志が入っていないといけないのではないか、 入れたいという部分を優先してしまいます。自分の得意な部分が表面に形として表れないとダメなのではない かと思ったりしてしまいます。
素直に従って、スッと物事の中に入っていくほうが、時間も短縮できますし、能率的、生産的に仕事ができ るのではないでしょうか。 
昔、上司から契約書を10回書き直しさせられたことがありました。上司からここを直せと指示されても、 指示通りに書き直しせず、上司や客先に自分が認められるようにいろいろ工夫して書き直したのですが全部 ダメでした。最終的にOKをもらえたのはスタンダードな形の何の変哲もない契約書でした。 「契約書は内容がただわかればいいだけなので、君がよくやっているという部分を見せる必要はない」と 後から上司に言われました。
日報や報告書などは、日時と事実を書けばそれで良いのに、自分の味を出さないといけないと思い、そう しないと書いた気になりませんでした。いいふうに書こうとしてまるでシナリオライターのようになっていました。
◆ 人からアドバイス等してもらうにはどうしたらいいのでしょうか、 他人の力をどう活かせばよいかわかりません。
以前は上司に教えてもらうことがなかなかできませんでした。わからないことは 「わからないから教えてほし」 と素直に言えるようになってきました。偉くみられたい、 バカにされたくないという思いが強いから「わからない」ということを他人に言えないのだと思います。
こんな質問をすると子供じみていると思ってしまったりしますが、上司に早く質問したほうが 時間のロスも無くなります。
上司にきけず、教えてもらわないばっかりに、客先でしどろもどろになったりへまばかりして、 お客さんに注意をされたり、いろいろ教えてもらったことがありました。しまいにお客さんから 「私は君の教育係りではない。ちゃんと上司に教えてもらえ」と怒られてしまったことがあります・・・。
バカになると上司にもききやすいですし、早く教えてもらえます。 
なんでもかんでも人にきくのはよくないと思います。自分でここまでやったがここはわからないとか、 自分はこう考えたけどこれであってますか?というようにきいたほうがいいと思います。
◆ 読書に対してサラサラと平気で愉快に、なんの骨折りもなく、どんな困難事でも 容易に理解し、片っ端から記憶してしまわなければならぬというのは気分本位である。 成績優秀になる人だから、相当に読書に苦しまなければならない事は当然の事である。 成績優秀になりたいから、したがって読書の苦痛がある。成績などどうでもいいという人に、 読書恐怖のあるはずがない。(森田正馬全集 第5巻P36)
「片っ端から記憶してしまわなければならぬというのは気分本位である。」という部分を読むと、 「そんなことはないのでは?」と思ってしまうんですけど・・
森田先生は読書恐怖のことをわかりやすいように言っているのではないですか・・。 
片っ端から記憶してしまおうとするのはある意味では目的本位だと思います・・。
ただ悪いことではないが、重要なものだけ絞って覚えるとかしたほうがいいのではないですか。
能率も考えずだらだら読んでしまうのはやはり気分本位かもしれません・・。
その後に「吾人はただ自分の心の事実を正しく認めさえすれば、そこに強迫観念は成立しないのである。
すなわち読書の成績をあげ、能率を高めたいから、そこにそれ相当の苦痛がある。その苦痛は欲望に正比例 して全く当然の事である。
百円を得るには百円の骨折りを要するし、虚子を獲るには虎穴に入らなければな らないのである。
成績はどうでもよい、心持ちよく読みさえすればよいというのは、実は我と我心を欺く ものであって、もし実際にそうとすれば、毎日講談本ばかり読んでいさえすればよいはずである。」 と書いてありますし、あんまり局部的な読み方しないほうがいいのではないですか・・。
◆「自ら欺くことなく、自己を正しく如実に認める事を自覚という。
例えば自分は苦痛を回避する気分本位のものである。怠惰であり低能であり、 欲望過大であるとかいう事を、自ら省みて、よくこれを承認する事である。(森田正馬全集 第5巻 p.36)
神経質者は自分を欺くというより、正しく認めていない部分が多いように思います。
とじる