2002年1月
◆毎日の生活がむなしく感じ、自分は何のために生きてるのかなどと考え込んでしまいます。
何のために生きているのかと考え込んでも解決しません。とらわれたままでも目の前のことに手を出し ていくようにしています。今を充実させましょう。
神経質者は「むなしい」というイメージを持ちやすく、そういう感覚に敏感なのではないでしょうか。
主体性がなく人任せで、口を開けて餌を与えてもらおうというような態度だと「むなしく」なります。
餌を自分で見つけて子供に与えるというような態度になっていかないとむなしさからは抜け出せないと思います。
「むなしい」という状況が本当にあるのか疑ったほうがいいです。自分がそう感じているだけです。 むなしいと感じることを卑下することはありません。純粋な感情なのでむなしい原因がなんなのか、 自分の声をきいて(本心を知って)バネにしましょう。
敏感にむなしさを感じるのには何か理由があるのではないですか?やるべきことがあるのにやりたくない と逃げていたり、何かをやるべき時期がきているのではないでしょうか。 だらしなく「むなしい」という感覚に突入してひたってしまわないほうがいいです。
◆ 人からよく思われたいという思いもあり、人から言われるがままに動いてしまいます。仕事を頼まれ、断れずに引き受けました。まぁできるだろと思っていたのですが思ったより大変で休日も仕事をしないといけないような状況になってしまいました・・。主体的に行動できるようになりたいのですが・・・。
昔はこの仕事を引き受けたら得だとか損だとか考えたりしました。最近は損得感覚がなくなってきました。 できる部分は全部自分でやって、できない部分は他の人にお願いして流すようにしています。 人脈をつくっておくと人にも頼みやすくなります。
働いている限りこういう悩みはつきないものかもしれません・・・。スーパーマン願望が強かったり、 いいかっこがしたいのかも・・。
自分の思い描いている通りに仕事をしたいという思いが強いのかもしれません。 仕事をやらされているという状態は腹が立ちます。自分が仕事をしているのか、仕事に自分が使われているの かどちらの状態になっていますか?仕事に自分が使われるとしんどいです。
◆ 「便所の汚れたのを見兼ねて、これを清掃するのは修養であるが、修養のために、便所の掃除をするのは邪道であって、実にこの出発点から、いわゆる毫釐の誤り、千里の差を生ずという風になるのである。」(森田正馬全集5巻p31) やらないといけないから掃除はするのですが見兼ねて掃除するというような態度にはならないのですが・・・。
邪道でも便所掃除はしてください。とりあえず最初は治るということが目的でもいいので行動してください。
何かをしたという事実が大切で、その時の気分や感じを殊更大きくとらえないほうがいいです。 手を出した、手を染めたという事実だけを見ましょう。
「感じ」から出発しないといけないというふうにとらわれてしまうとそれも毫釐の誤り、 千里の差になってしまいます。満足度(気分)の窓から見てはいけません。 事実を喜ぶ癖をつけましょう。
何か行動をおこしても自分を認められないことがありますが、認めても認められなくてもやっていること 自体はそんなに違いはありません。 気分の善し悪しで見てしまうので自分の中では大きな差になってしまいます。
事実をきっちり認識する癖をつけましょう。事実の積み重ねが大切です。
◆ 「人に不快を与えないようにする事は、もとより一つの大切な修養である。
倫理、道徳的にいえば、親に対しては、常に温容をもって接しなければならぬということになる。
しかるにそれは何故であるか、自分はなんの目的でその様な事をするのか、自分の本心を知るのが自覚であって、 この自覚から出発して工夫した方が、最も思い違いや間違いの少ない方法ではないかと思われる。
その目的が、もし単に相手に不快を与えないというだけの事ならば、例えば子供に菓子を与えれば、 子供は喜ぶけれども、腹を悪くする恐れがある。その目的がもし人に幸福を与えるためならば、 たとえその子供の機嫌を損なっても、苦い薬を与えなければならぬ場合もある。」(森田正馬全集5巻p31)
事実唯真。事実から出発しましょう。 上司のご機嫌をとるためだけならへらへらしていればいいかもしけませんが、事実を見て例えば客先に対し てそれは失礼ではないかと思うような出来事があれば上司にでもきびしく言えます。事実が何かわかれば 何をすればいいかわかります。
事実以外のことをやってはいけません。事実以外のことに振り回されるから迷いの中に入ってしまいます。 事実から目をそらせてはいけません。
森田を知った頃に「事実が大切だ」ということをよく先輩からききました。事実の為に何でも犠牲に しないといけないのだろうかと思いました。
事実にそって徹底した行動をとるととても冷たい人間になる のではないかと思いとても嫌だったのですが実際はそうではありません。事実をよく見て事実にそって動いて いくほうが温かい人間になれます。
神経質者は情に溺れやすいので、事実を見るという碇(いかり)が必要なのではないでしょうか。
困難な場面に直面しても事実を見る目を持っていれば揺れ動きません。
その場その場の事実を見ていきましょう。その時は事実であっても時間がたてば変化して事実ではない ということもあります。昨日までむちゃくちゃなことばかりを言っていた人でも今日正しいことを言えば、 言ったそのことが正しいというのは事実です。
人間は弱いからいつもいつも懸命に生きていけるものではありません。
あの人は昔こうだったというような 目で過去のことを引きずって見てしまうと事実と合わずに変になります。その時々を見ていきましょう。
◆ 努力しても報われず(試験に失敗したり、いい仕事につけなかったり・・・)道が開けません。
できたことやったことを認めましょう。 やった過程を見ましょう。(まわりの評価は関係ありません) 試験に落ちても自分の人格全てを否定することはありません。また来年に向けてがんばったらいいのではないですか。
「試験に落ちてくやしいな〜」というそれだけでいいのではないですか。
一生懸命頑張ったなら卑下することはありません。
頭が良い悪いは個人差がありますし、学力があればそれでいいというものではありません。
いい学校いい会社に行けばすばらしい人間だというものではありません。
一生懸命努力している姿はすばらしいと思います。
努力即幸福。努力すれば幸福になるという意味ではありません。結果を求めるのではなく、努力の積み重ね、 努力そのものが幸福です。
価値観を変えないと面白くないです。
のろまな亀ほどいいです。特急や新幹線に乗ったり、飛行機でひとっ飛びに行ってしまうより各駅停車に 乗って一駅一駅まわりの風景みながら進んだ方がいろいろなものが見えます。
森田正馬全集5巻P31〜P32より-----------------------------------------
試験があるから勉強する。貯金をしたいからむだ遣いをしない。今日のような形外会でも皆お互いに いかにすれば、これを盛んに面白くする事ができるかと工夫する。それがそのまま事上の禅である。
修養とは、その人、その境遇、その場合、その時に応じ、必要に応じて、その目的に対して、 ベストの努力をする。そこに修養があり、創造があり、進歩があるのである。
我々は強いて欲ばりで、無理に善人にならなくともよい。ただ事実のあるがままを認め、 自然に服従し、境遇に従順であって、自分で努力するのも、ズボラするのもおのおのそれ相当の応報、 結果を受ける覚悟でいさえすればよい。すなわち人に不機嫌をもって当たれば、その報いを受け、 人に親切の押売をして、後に恨まれても、その罪を引き受ける覚悟で、常に卑怯とごまかしとがなくさえあれば、 それが勇者であり、善人であるのである。
とじる