2001年10月
◆悩み苦しんでいたころと、今と比べて変わったところはありますか?治るとはどういうことでしょうか?
依然として、人と仲良くなるのは苦手ですし、人前で話すようなときは相変わらず緊張します。
しかしながら以前の自分と比べると、不快な感情(恐怖感・不安) や症状(声が震える、どもるetc) に対する関心が小さくなっていると感じます。そして、「症状があるままでもなんとかなるし、 それなりに日常を充実させることはできる」と思うようになってきました。
森田療法では「治る」とは症状がなくなることを言うのではありません。恐怖や不安などの 不快感を異物視する考え方が消失することを言います。今も、不快感はなくならないものの、 それを異物視し、取り除こうと心が働かないため、結果的には当初なくしたいと思っていた症状も消失しています。
人と仲良くなるのにもっと大切なのはその人との「距離感」や、「相手の立場に立って考えられること」 であって、それらは人付き合いの経験の中で培われていくものだと思います。その経験の場を避けてきた自分は、 人付き合いが苦手なのは当然だと思います。しかも自分は人に好かれたいという欲望が強いから、なおさら人といるとき、人を意識しがちなのは仕方がないです。しかしながら、その意識が強いのは、人の気持ちに立つことや、気配りするときに役立つちます。 症状を持ちつつ、今ここでするべき行動、あるいはしたい行動をしていくしかないように思います。
しんどいながらに構えず身軽に行動するなかで、「何とかやってこれた」ということが、自分の中で小さいながら自信となって来ていることを感じます。 経験が無さすぎるので、とりあえずいろいろな経験をしたり行動をしたほうがいいと思うようになりました。失敗も経験することでいろんなことが見えるということがわかりました。 わからないことがあっても人にきいたりできずに、タイミングを失い問題を大きくしてしまっていましたが、今はすぐにきいたり、身軽に手を出せるようになってきました。
◆ あることがきっかけで一転して対人恐怖になりました。とりあえずいろいろ行動できるようになりましたが、 「あるがまま」「恐怖突入」など自分に言い聞かせて行動したりすることもあります。以前の状態にもどりたいとい う思いが強く、以前の状態にもどることが「治る」ということなのではないかと思ってしまいます・・・。
治れば前の状態にもどる以上に考え方や捉え方が変わりました。
「症状は不問である」ということを最初にわかっておかないと症状に目が向いて 「治る」とか「治す」という方向に向かってしまいます。神経質症は病気ではないのですから治さなくて もいい(症状を相手にしない)ところから出発しないといけないのではないでしょうか。
かつての自分(子供のころの自分)というのは責任を取らなくてもいい自分です。(楽だけど親の監視の元で行動) 年をとってくると年相応の責任をとらないといけません。(そのかわり自分の自由にできる)単に昔に戻るという というのではなく、新しい価値観を得ないといけないのではないでしょうか。
◆人の輪の中に入っていけません。苦手な人を避けてしまいます。自分は異常だという思いが強いです。
自分が異常だというのは、誰と比べて、何を基準としているのでしょうか?事実を見るようにしましょう。 自分がどうありたいかという本心を知りましょう。価値観が変わると同じ状態でも見え方が変わってきます。
対人関係は理屈ではありません。こんなふうに接したら仲良くなれるのではないかというようような 接し方は相手には見え見えです。嫌われることも覚悟で、下心なし、かけひきなしで付き合います。 人を好きになるには労力もいります。対人関係を良くする工夫をするのではなく、相手のふところに 入ることが大切です。
悩んで苦しんでいるときの自分の感覚は狂っていると思ったほうがいいです。(自分の中で勝手に 想像している部分が多いです。)
とじる